友だち/お店に歴史あり⑥ / 浅野史郎

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

東京は新橋烏森通りのビルの地下にあるスナック2BEAT。ここには40年以上通った。私にとって、お店通いの最長不倒距離である。初めて行ったのは、昭和49年も末の頃だった。当時の私は、環境庁自然保護局企画調整課企画調整係長をしていた。係員の大野博見君の自治省同期である山野岳義さんが、新橋界隈のお店を軒並み覗いてみて1週間目ぐらいに「ここだ!」と気に入ったのが2BEATだった。

環境庁のある中央合同庁舎5号館から歩いて15分。地の利もいい。店内には低めのテーブルを挟んでベンチ席が2つとカウンター席が6席ある。マスターの住吉昌宏さんのギター伴奏で客が歌うという、歌声スナックのような店である。カラオケなんてない時代、当時としては珍しい「歌えるスナック」であった。

マスターの住吉さんは、穏やかで、にこやかで、ギターがうまい。時々、つまらない冗談を口にする。一緒にいて心がなごむ人である。ママの英子さんは、見た目も綺麗だが、それ以上に頭の回転が速い。それでいて落ち着いた感じで、私は一遍で気に入ってしまった。

私より年下の彼女を「ママ」と呼ぶのもいやだったので、「名前を教えて」と頼んだことがあった。彼女は言い渋るので、私から当時はやっていた中森明菜の「少女A」にちなんで、「A子さん、英子さんだな」ということにした。それからは、ママと呼ばずに、英子さんで通した。

当時は独身だったこともあって、2BEATには同じく独身の大野君と一緒に週に2、3回も通ったものである。飲むだけでなく、お店にいるのが楽しい。お客さんはみんな歌がうまい。ギターの弾き語りをする人も少なくない。そんな中に、浅野三郎さんがいた。英子さんから紹介されて、「嘘だろ」と思った。彼は私の2つ年長、2BEAT歴も私より長い。だから私のお兄さん、それが浅野三郎さん。出来過ぎた冗談かと思った。三郎さんは、お店の「カントリー&ウエスタンファンクラブの会長」、弟の史郎は「エルヴィス・プレスリーファンクラブの会長」である。

西暦2000年の12月末、英子さんから打ち明けられた。「私は英子でなくて、本当は夏枝というの。世紀をまたいだ嘘になるのがいやだから、今打ち明けます」ということだった。それまで25年の間、英子さんと呼んでいたのが、夏枝さんになった。こんな話はめったにあるものではない。私は愉快なエピソードとして、心に残っている。21世紀になってからは、英子さんでなく「なっちゃん」と呼んでいる。

お店はマスターの住吉昌宏さんの体調がすぐれず、2017年4月に閉店とあいなった。それからしばらくして、昌宏さんの病状が悪化して入院した。私がお見舞いに行った時には、病状はかなり重くて意識もなくなりつつあった。私は耳元で「侍ニッポン」を歌って励ました。マスターはお店で私が歌うと、「伴奏がしづらい」といっていやがったのが「侍ニッポン」だった。2019年3月15日住吉昌宏さんは妻の夏枝さんに看取られて息を引き取ったという。

2BEATは閉店したが、仙台の「鳥よし」は2022年(令和4年)1月現在営業を続けている。大相撲の現役力士の華吹(はなかぜ)は現在51歳、序二段で相撲を取り続けている。華吹を応援しているのは、鳥よしを応援しているのと同じ気持。「相撲やめるなよ」、「お店やめるなよ」。満身創痍になっても営業を続けている鳥よし。私にとっての自慢の種であり、誇らしくも思えるお店である。

友だちの話に戻ろう。友だちが多いことを誇っても意味がない。私には65年も親交が続く友だちがいることを誇りたい。「継続は力なり、いや『継続は美しき哉』」である。

◆プロフィール
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし

「明日の障害福祉のために」
大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。

2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」。

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