小さな自分を抱きしめて~ワクチンと映画館~ / 安積遊歩

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

コロナが蔓延し始めた時、ニュージーランドの政治には目を見張らされた。アーダーン首相がテレビを使い、人々に丁寧に語りかけていた。休業補償も即刻行われ、人々の暮らしの安心感は、日本とは格段に違っていたと思う。(日本政府が最初に行ったことは、ゴミ入りのマスク2枚配布という世界的にも驚きと失笑を買った。)

そうした背景があるからか、ニュージーランドには、ワクチンに対しても政府の方針を受け入れていくという土壌があるように思える。そこに住んでいる娘も昨日、3回目のワクチンを摂取したと言ってきた。正直言って、私としては、3回まで打つことはない気がした。

2月の初めに、妹が仕事の関係上3回目を打つと言ってきたときにも、気持ちの中では髪の毛が全部逆立つほど辛かった。けれども、それを言葉にしても妹が苦しむだけだし、今回の娘の場合は、事後承諾だった。

娘は「ワクチンに反対している人たちは、白人で裕福な人が多い気がする。」と言っている。つまり、マオリの人やアイランダー(南太平洋の島々から移民してきた人々)は歴史上、様々な経済格差を強いられ、排除されてきた。だから、ワクチンについては、公平な分配がなされているということで、積極的に打つ人が多いらしいのだ。

これは、日本の状況とは本当に違う。特に私は、日本の政治家が提案してくるものは危険だという警戒警報がすぐに発動される。ワクチンについても、なるべく打ちたくないと思ってきた。実際、多くの障害をもつ仲間が打っている中でも、私はなんとか打たない自由を確保している。

しかし、それでももし娘のところに行くために打たなければならないとなったら、すぐに撤回しようと思ってもいる。もしかしたら、7月にはニュージーの国境も開くという情報もあるので、それまでには打とうかとさえ思っている。ここで思うのは、ワクチンの危険性より、娘に会いたさが勝つだろうということだ。

一人一人には、それぞれに個人的な事情というものがある。育った環境も要求も、取り巻く人々の眼差しもめちゃくちゃに違う中で、必要なことは徹底的に自分で考えて決めること。私はいつもいつも自分で考えて、妥協できるところは妥協するが、妥協できないところは、お互いを尊重しようというふうに立ち続けてきた。

つまり、ワクチンも私自身はしたくなくとも、最愛の妹と娘への摂取は反対表明はしても止めることはできない。私のやれることは、摂取後の身体の状況を丁寧に聴くこと。そして、その決断を後悔させるのではなく、身体の賢さを褒め称えること。

つまり、ワクチンを摂取するという彼女たちの決断は私自身の身体ではないから妥協せざるを得ない。そして妥協はするが、私が一番求めているのは、彼らが元気でいてくれることだから、彼らの身体の有り様を尊重して、元気を維持、継続してもらうこと。

そんなことを考えている日々の中で、先日同じ映画館に2度行った。映画の内容は置いておくとして、ここで言いたいことは、その映画館のアクセシビリティのことだ。この映画館は、数年ほど前に改修して、映画を上映する部屋を増やした。元からエレベーターはなかったが、改築するというので、もしかしたらエレベーターがつくかもしれないという期待をもった。

行ってみて、期待が見事に裏切られるという現実に直面した。改築前に行った時には、映画館のスタッフに頼むのではなく、映画を見に来ていた客仲間の人たちに車椅子ごと持ち上げてもらった。だから今回もそうしようかと思ったが、なかなか客が集まらない。しびれを切らして、「スタッフを呼んでくる」という介助者に同意して、呼んで来てもらうことにした。

同意しながら嫌な予感はした。大抵、今までの経験から、スタッフを呼ぶととにかく待たせられるし、待たされた挙句に私が望まない解決策を提示されることが多いのだ。今回もそうだった。介助者と一緒に降りてきた職員は、スカイモービルがあるのでそれを持ってくるということだった。それは、スタッフが車椅子の私をある機械にはめ込んで、1人で動かして階段を上り下りできるという機械。

私は、スカイモービルの安全性と乗り心地に非常な疑惑をもっているから、すぐにお断りした。そして、「私も重くはないので、介助者をいれて、プラス3人が持ち上げてくれれば登れます。」とお願いした。

ところが、その折衷案は、彼女の観点では全く妥協できないものだった。私は、10分近くの間、ハートビル法や障害者差別解消法などの法律を伝えながらも、段々少しずつ苛立ちが募っていった。彼女の方も私と同じく苛立ちを募らせながら、ついに放った一言が「男の人を呼んでくる。」というものだった。

この言葉には、心底がっかりしたが、半ばどうでもよくなっていた私は、彼女がしたいようにするのを見守った。そして呼ばれてやってきた男性は、非常にフレンドリーで、彼と、「男の人を呼んでくる。」と言い放った職員でない、別の女性職員に手を貸してもらって、その日はとにかく映画を見ることができた。

そして2回目は、「施設の管理上、車椅子を持ち上げての移動は絶対に許可できない。」とまで言われた。「『許可できない。』と言われる筋合いはない。映画を見るかどうかは、私が私自身に許可をするのであって、誰かが許可できないという権限があるのか。皆さんに考えてほしいことは、車椅子の移動を手伝えるかどうかということなのだ」と言ってみた。

すると彼女は、「このビルの管理者が許可をするのだ。」と言ってきたので、「ではそのビルの管理者に聞いてきたのか。」と言うと、「今いって聞いてくる。」ということになった。そして、彼女が戻ってきたときには、なんと3人の男性を従えていたのだ。その管理者の返事は、「手を貸してみれるなら、手を貸せばいい。」ということで、私の妥協案である人力移動を管理者も認めたのだった。

さて、ここで考えなければならないことがある。今後の事だ。私自身は多少不愉快な思いはするが、映画を見れるようにはなるだろう。しかし、このままで良いはずはない。障害者の権利条約から言っても、日本国憲法の基本的人権の尊重から言っても、誰でも視聴できるべき映画館から、それも日本有数の大都市である札幌の映画館にエレベーターがないということを見過ごして良いのかと思うのだ。

ワクチンのように、一人一人の決断で、考えて行動するしかない事象と、簡単に結論づけれない葛藤が残るのだ。駅でのエレベーター設置を戦った時にあった、仲間たちの団結を今回はあまり期待できそうもない。なぜなら、このネットの時代、Netflixやアマゾンプライムなど、劇場に行かずに見れるサービスが多くある。そんな中、それでも私の自由の翼を広げることは、他の仲間の翼を広げることに繋がるのだとどこまで思っていけるだろう…。

映画を見に行くだけで、このようにも差別に直面し、このようにも深い思索を展開しなければならない、私の身体。自由と平和への鍵を握り続けているこの身体。感謝しながら、さらに考えていこう。

◆プロフィール
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ

骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。

著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。

2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。

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