私の家族④ / 浅野史郎

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

私には姉が三人いる。三人目の姉陽子は生まれて10日で亡くなっている。私の生まれる丁度一年前のことである。長女敞子は5歳上、次女公子は3歳上である。陽子のことは、姉二人の間で話題になっていた。陽子は生きていたらすごい美人で、すごく頭が良くて、性格もいいと。私はそうかもしれないなと思った。

上に姉二人がいるおかげで、「門前の小僧習わぬ経を読む」の如く、姉たちが話していること、読んでいるものから多くのことを学んだ。字を読めるようになるのが早かったのも姉たちのおかげである。学校の勉強に関しても、「算数は暗記科目だよね」、「国語は本を読んでいれば勉強しなくてもできるさ」といった会話から会得すること大であった。

いいことだけではない。エイプリルフールでは2年続けて騙された。なにしろ二人がかりで騙すのだから、幼い私はなすすべがない。二人がかりでからかわれる、いじられると、幼い私は泣いてつっかかっていく。それがまた、姉たちに面白がられてしまう。相撲の世界で「かわいがる」というのは、厳しく稽古をつけるという意味である。姉たちも、そうやって私をかわいがっていたのだろう。だとすれば、ありがたいことだ。

小学校中学年まで姉たちには、「坊や」と呼ばれていた。「サンタクロースなんていないんだよ」と知恵をつけられていなかったおかげで、私は中学生になってもサンタはいると信じていた。これもありがたいことの一つ。

仙台市立木町通小学校に、1年生、4年生、6年生として私たち姉弟が一緒に登校していたことがあった。たった1年間だけだったが、私には大事な思い出として残っている。その後は、それぞれ中学校、高校、大学とばらばらになる。姉二人は、中学校も高校も同じ、さらには進学した大学の学部まで同じである。どちらも県立高校の教師になり、それぞれの配偶者も県立高校の教師である。

二人の経歴はそっくり同じだが、性格はちょっと違う。敞子は長女である自覚もあってか、しっかりもの感が強い。ホームにいる母を週に2、3回訪問することは大変なことである。私には姉に頼っている感があった。たーちゃん(敞子の愛称)は大人なのである。

次女の公子には、姉と弟にはさまれて微妙な思いがある。着るものは姉のお下がりばかりという悲哀も味わったことだろう。弟(私のこと)は末っ子の男の子として甘やかされ、欲しいものは何でも買ってもらえる。「不公平だ」と思う場面も多かったはずだ。損な役回りをさせられていると感じていただろう。

幼いころの公子は、おとなしいというか音無しで、人前で話すことがなかった。そのため、「きんちゃん(公子の愛称)はおっつ(仙台弁で唖のこと)でないのか」とうわさされていた。そのきんちゃんが公子さんと呼ばれるほどに育ってからは、しゃべりだしたら止まらない、お酒が入ったらなおしゃべりまくるほどに変容した。もともと素質があったのだろう。

今は、敞子と公子はほぼ毎日電話で長話をする。週に一回は敞子の家で公子だけがビールを飲みながら、いつまでも続く話をしているらしい。

敞子姉は本を読むのが好き。「この人の作品がいいよ」と私に教えてくれる。私のほうでは、読み終えた本がたまると、まとめて送ってやる。読書仲間のようなものである。

とまあこのように、姉弟3人は今でもとても仲がいい。これも私の「愉快な人生」の部品の一つである。

 

◆プロフィール
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし

「明日の障害福祉のために」
大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。

2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」。

 

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