『ちょっと聞いてよ~禍中のすみっこから~』 / わたしの

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

「ちょっと聞いてよ………」

私の知人は話してくれました。

彼はある時、駅のホームに設置されている鏡に写った自分の顔を発見し、思わず立ち止まってしまったそうです。

「老けたな」

すぐにスマホのギャラリーを開き、見比べてみました。

一年前、いや、半年前の写真の自分は若い、幼い感じがしました。肌がつやつやしていて、生気があったそうです。

ところが鏡に写る自分は肌がしぼみ、血色が悪い。
目の下がだるだる。
疲れている……やつれている………。
愕然としました。

(^_^;)

緊急事態宣言のもと、外出や行動を自粛し、自宅待機の多かった時期を抜けた後、彼はひどい「疲れ」に襲われました。

だるくて、息苦しくて、体調が悪かったのです。

自宅にいる時間が長く、一見休んでいるように誰の目からも見えます。移動だって、激しい運動だってそんなにしていません。負担の掛かる折衝もしていません。

仕事だって減ったのだから休んでいるようなものです。

しかしそのはずなのに、疲れてしまう………。

なぜだろう。

彼は「休ませてほしい…」と切に願っていました。

しかし、休むことはできませんでした。どうやったら休めるのか、どうやったら回復できるのか、分からなくなってしまったのです。

休みたい。

止まりたい。

風邪をひいたとき、以前であれば症状は発熱や喉の痛みなどの身体的なものが主でしたが、最近嫌なのは「鬱」です。

ひどく疲れていた時期と風邪が重なってしまった時は彼の「気の滅入り」もひどくなりました。

『友がみな 我よりえらく見ゆる日よ』と、かつて石川啄木が歌ったような状態が、ずっと続いていました。

彼はそれを「啄木状態」と呼んでいました。

「啄木状態」になると「自分って駄目だなー、劣っているなー、いらないなー」と自分の価値がまったくなくなり、存在していることがいたたまれなくなってくるのです。

死にたい。朝になるとそればっかり言っていました。

そんな気持ちは仕事が紛らわしてくれて忘れさせてくれましたが、くたくたになって家に帰り、家事を担い、子育てと介護を担い、そのまま倒れるように眠りました。

そして、朝になってまた、死にたいと彼はずっと呟いていました。

(^_^;)

ピンと張りつめている時はいいのだ、と彼は言います。

それが少し緩んだ時に苦しくなってしまう。

気を張っている時は大丈夫だ。闘っている時はどうにかなる。

しかし、闘いが終わってほっと一息つく時に取り返しのつかないような疲労感と脱力感に襲われてしまうのだそうです(だから本当は闘っている時から力を緩めておかなければなりませんでした)。

頑張っている時は大丈夫なのですが、だんだん疲れてきます。
気を緩めた瞬間にもうそこから二度と頑張れないような無力感を感じます。

生活様式はがらっと変わりましたが、夏は相変わらずの暑さでした。

暑い夏もどうにか乗り越えましたが、少し涼しい風が入り込んできた時にふっと身構えていたものが緩みました。

だるくてだるくて仕方がありません。

もう一度体勢を整えて、ガードを固めて、気を引き締めなおすのにはものすごいエネルギーが必要に感じ、彼は「無理」だと思いました。

しかし、そんな「無理」だと嘆いている自分も気に食わなかったのです。

「無理だと思うから無理なんだ」というどこかの社長のセリフを自分に浴びせました。

そんなの甘えだ。

腐るな。

嘆くな。

逃げるな!

とは言ったって…鼓舞しても鼓舞しても動く気力がわきませんでした。

彼にはもう何も楽しいことがありませんでした。

何を食べても味がしないし、何を見てもきれいだと思わなくなっていました。温度も匂いも色彩も失いました。

自分が枯れ枝のようになってしまったことを感じていたそうです。

(^_^;)

車での通勤途中、信号待ちをしている時に彼が何を見たのか、はっきりと覚えていないそうです。

腰の曲がった老婆が横断歩道を渡る姿だったのか、お腹の大きい妊婦がバス停で待っている姿だったのか、重い荷物を抱えた中年の男性だったのか、今でははっきりと思い出せません。

けやき並木の道でした。

まだ暗い朝の光の中で彼は確かに「誰か」を見ました。

その時に突然、枯れていた心の底から急に熱い感情が噴き出し、勢いよく昇ってきたのです。彼にはそれを止めることができませんでした。

そしてそれは両目に到達し、涙となって流れました。

車の中で声にならない声をあげて彼は泣き出してしまったそうです。

「この世には誰ともつながれずに人知れず孤独な闘いを続けている人がいるのだ」

ということをなぜだか直感的に理解し、涙は止まりませんでした。

誰を見て、どう思ったからそのことを直感したのかは定かではありません。もう覚えていないのです。

しかし、彼はこみ上げる液状化した熱い感情を自分の内に意識したのです。

それは自己憐憫ではありません。

「みんながみんな幸せではない」

「それぞれの事情を抱えて生きている」

「つながる人がいない、つながり方が分からない、そもそもつながることを知らない」

いろんな人生がある。

「辛い状況に立てば立つほど他人の気持ちが分かる」という、端的に言ってしまえばもうすでに百万回もこすられたあまりにも陳腐なことなのかもしれません。

自分の追い詰められた状況から改めて世界を眺めたということにすぎないのかもしれません。

人はそれをヒロイズムと呼んで嘲笑うかもしれません。

人間を人間たらしめる「ロマン」だと言う人もいるかもしれない。

嘘だ、と批判する人もいるかもしれません。

彼は自分と同じように、あるいは自分よりももっと過酷な苦境に立たされているであろう人のことを思い、しかもその人が誰からも発見されない場所にいるかもしれないことを想像しました。

「誰か」と共感していたのです。

それはひとりよがりではありません。
気のせいでもない。
錯覚でもない。

自分の心が奮い立つのを感じました。

「腐ってる場合じゃないんじゃないか」

と、彼は思ったそうです。

 

 

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