あなたの命、誰のものですか? Part 2 ~ 『生きる権利』、『死ぬ権利』、そして『死ぬ義務』 / 古本聡

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

18世紀の哲学者、ジャン=ジャック・ルソーは、戦時医療について次のように述べました。

『負傷兵は、戦力外になったとみなし、もはや敵味方の関係のない自然状態の人間に戻ったと認め、その基本的な人権を尊重して平等に扱うことが民主主義的な方法である。』

ルソーのこの言葉は戦時、すなわち非常時の医療の在り方について言及したものですが、私はこの文の中の単語をいくつか入れ替えて、現代の世の中でも理解しやすいようにアレンジしてみたいと思います。すると、

『病気や障害を持った者や高齢者は、労働力として戦力外になったとみなし、もはや経済社会における位置に関係のない自然状態の人間に戻っているものと認め、その基本的な人権を尊重して平等に扱うことが民主主義的な方法である。』

こうなります。

ちなみに、ルソーのこの考え方は、赤十字条約が求めている、全ての患者・負傷者に対する待遇であり、そしてまた、人間が大昔から人道的であると感じてきた病者への待遇でもあることを付け加えておきます。

ルソーの生きた時代は、市民が立ち上がったフランス革命が起こるなどした、民主主義が最も純粋な形でとらえられ適正に運用されていた時代だったとも言えます。

当時は、戦禍にあっても、ルソーの教え通りに、フランス軍の医療衛生部隊は敵味方の差別なく、戦場で倒れたもの、不運にも災渦に巻き込まれ負傷あるいは病気にかかった周辺住民の治療をも行ったのでした。

ただし、そのような時代は、割とすぐに終わりを告げます。戦争の仕方がより激化し、より残忍で非道になっていったからです。兵器はどんどん強力になっていき、戦法も勝敗だけが重要視されるようになっていったのです。そのため、人権の保護よりも戦術的要求を優先しました。このときに行われたと考えられる選別的・差別的医療を triage (トリアージ、選別)と呼ぶようになったのです。つまり、この段階で、全体または周囲の戦力になれる人たちを生かすために、個人には「死ぬ義務」が課せられていきました。

この非人間的な考え方はやがて平時医療にも導入されていったのでした。そこではすでに「人権」という概念は希薄になってしまっていたのです。そのことが、民主主義の思想を根底から蝕んでいき、世の中をより野蛮で敵対心、冷酷さが支配するものにしていくのです。

これまで数えきれないほど世界のあちらこちらで頻発してきた戦争や紛争のほかに、「命の選別」と「死ぬ義務」が当然視されるようになることを大いに促した要因がもう一つあります。それは、経済というものの異常な形態での発達と縮小です。そしてその結果としての民主主義のさらなる衰退です。

私は別段、経済社会そのもの、経済成長の高低を否定するつもりは毛頭ありません。ただ、本来ならば、経済が好調の時期には社会と国民の生活はある程度平等に潤い、低成長の時期にはそのレベルはどうしたって下がります。それが法則でした。20数年程前までは。

しかし、今では様相が大きく違ってきています。低成長が経済の特徴になっているのです。一党独裁国家はやや別ですが。そんな状況の中で進行しているのが富の集中です。人口構成のディスバランスなど、ほかにも要因は多くあるにせよ、それが起きたのは産業構造が変化したから、それにより貧富格差が助長されたから、ということも言えるでしょう。

こんなデータがあります。米国では2019年時点で上位1%の高所得者が資産全体の33%を保有していたのに対し、下位50%の低中所得者が保有する資産の割合はわずか2%に過ぎませんでした。1989年時点における両者の比率は26%:4%だったので、30年間で格差は少なからず拡大したことになります。こうした動きは私たちの国でも起きていて、やはり貧富の格差という問題が大きくなっています。

先進資本主義諸国の経済をけん引するIT産業は、過去20年間で雇用を2割近くも減らしました。労働集約型の製造業を中心に発展した20世紀の資本主義に対して、知識集約型の情報産業を中心とする21世紀の資本主義経済は、成長の原動力である中間層が育ちません。中間層は従来、民主主義の担い手として倫理や正義といったものにも影響を及ぼし社会を安定させる役割を果たしてきましたが、その層が没落してしまったのです。

だからこそ、生命倫理も非常に危ういものになってきてしまった、と考えるのは私だけでしょうか。

戦時同様に平時でも、民主主義が衰退すれば、すべてが自己決定(=自己責任)に委ねられる倫理になってしまうわけですし、平たく言えば家族が困窮しないため、社会からお荷物扱いされないためにも、役に立てない・立てなくなった個人に対し、「もうあんたは死んだ方がいい」「あんたには死ぬ義務がある」と容易く言えるようになってしまうのです。

話は変わりますが、最近増々危機感を持って叫ばれている「医療崩壊」という言葉の意味が以前とは変えられていることにお気づきでしょうか。

Wikipedia(私はここの情報が絶対に正しいとは言いませんが、常識的だとは思っています)によると、「医療崩壊とは、医療安全に対する過度な社会的要求や医療への過度な期待、医療費抑制政策などを背景に」、「医師の士気の低下、防衛医療の増加、病院経営の悪化などにより、安定的・継続的な医療提供体制が成り立たなくなる」状況を指すが、学術的な吟味がなされていないという意味を込めて「俗語」だ」とされています。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/医療崩壊)

ところが、新型コロナウイルス感染症の流行下で懸念されている「医療崩壊」は少し意味が異なるようです。東京医科歯科大学市川総合病院の循環器内科の大木貴博医師は、同病院のホームページに2020年4月25日付で「新型コロナウイルス感染症による医療崩壊とは」という文章を掲載していますが、そこでは、「医療崩壊とは、必要とされる医療資源が、供給できる医療資源よりも多くなること……(医療資源の需要>医療資源の供給)」とあまりにも簡潔な定義を示しました。
(http://www.tdcigh-circ.jp/news/news_02.html)

軍事医療分野における「トリアージ」という言葉も、時代及び状況の変化に応じて、その概念が変更されていった、という経緯を見ても、私は、「医療崩壊」という言葉の変化についても、とても嫌な予感がするのです。

兎にも角にも、私は俗化された意味での「トリアージ」についても、また安易に議論され始めている「死ぬ権利」「死ぬ義務」についても、断固として否定し反対いたします。

 

◆プロフィール
古本 聡(こもと さとし)
1957年生まれ

脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。

早稲田大学商学部卒。
18~24歳の間、障害者運動に加わり、障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。

2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。

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