土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)
雄大な眺めを楽しんでいた王が足下の街に目を移すと、にぎわう街中を行き交う人々はいかにも小さかった。そして、忙しそうに動いている人々はそれぞれの営みのために動いているのであり、高楼から眺めている自分たちとは全く無関係にみえた。
王はふと人と人との繋がりとは何かと思った。
王はそばに立っている妃に尋ねた。「妃よ、そなたには自分よりもっといとしいものが他にあるか」
妃は少し返事をためらっていたが、しばらくして王の目を見据えて言った。
「王さま、わたしには自分よりいとしいものはありません。では王さま、王さまにはご自身よりさらにいとしいものがおありですか」
「妃よ、正直に言えば私も自分よりいとしいものはない」
妃は安心したようにほほえんだ。ふたりの答えが一致したのだ。
しかし王はこの答えに満足できなかった。
人が皆自分だけがいとしいとしたら、この世はいったいどうなるのだ。
王の心には割り切れない疑問が固いしこりとなって残った。
世尊を訪ねてお聞きしよう。王は高楼を下りると早速釈尊の精舎へ出かけていった。
「世尊よ、実は私は妃に自分よりもいとしいものはあるかと尋ねたのです。すると妃は自分よりもいとしいものはないと答えました。これを聞いて、私も自分の心に正直になって考えますと、やはり自分よりいとしいものはないように思えます。しかし、それではいつも世尊が説かれている道に反しているような気がしてならないのです」
この話を聞くと釈尊は深くうなずいてうたを唱えた。
人はだれでも 自分より
いとしいものは ほかにない
他の人々も 同様に
自分がもっとも いとしいもの
それだからこそ 利己のため
他人を害する 愚行はするな
王は、はっと目の前が開けた思いがした。
「それだからこそ、ほかの者を害してはいけない…。そうか。そうなのですね。わかりました。わかりました」
王の胸の中のしこりは湯の中の氷のように解け去り、言いようもない喜びがわき上がってきた。
阿含経のなかのお話です。
私も喜びがこみ上げてきました。
なぜ自分のことばかり考えてはいけないのか、なぜ人の嫌がることをしてはいけないのか、その問いに、シンプルに応えているのではないでしょうか。
最も自分を大事に思っている私、最も自分を大事に思う私以外の人、みな同じことを思う。自身も、他の人も、かけがえのない大切な存在であることを確認したい。
しかし、自分ほどいとしいものはなく、他の大切な存在と同等に扱えないのもまた事実である。
それだからこそ、より意識して、他の人を大切にすることを心にかけたい。
その大切な存在には、出会い別れ、喜びや苦しみ悲しみ、様々あったと思う。私と同様に、これからも避けては通れないだろうと親しみも湧く。そして、私の過去の経験から、大切な存在の痛みをおもんばかることもできる。
しかし、いま苦しんでいる、いま悲しんでいる大切な存在を前にして、その気持に共感することは難しい。
難しいが、難しいことと自覚して、それでもなお理解したいと思う心は、寄り添う心といえるかもしれない。同じ心にはなれないが、理解しようと共感に近づくことはできるのではないか。
自利利他
自分の苦しみ悲しみばかりに目がいくと周りが見えず、自分ばかり、、、と否定的になってしまう。そんなときもある。
しかし、自身を通して大切な存在を見ようとするとき、自身の苦しみ悲しみ無くして見えるだろうか。
それは、大切な存在を少しでも理解することや、寄り添おうとする心にとって必要不可欠なものとなり、他ならぬ自身にとって大切なもの、となっている。
反省しなければならないが、私は利己的に動くことが多い。わがままを受け入れてほしいと願い、叶わなければ腹を立てたりする。幾度となく繰り返してしまうが、感情的に害する愚行をしてしまったときなどは、後悔の念にかられる。自分自身も傷つける。
反対に、なかなか無いこととはいえ、自分のことのように相手を思えたとき、何かの役に立てた気がしたとき、私は素直に嬉しい。
4人家族にりんごが6個あった。1人1個にして残った2つを隣家に分けようと母は思った。娘が言った。うちは2つを4人で分けて4個をあげようよと。父も母も嬉しかった。相談して喜んで4つあげることにした。
隣家に2つあげたときと4つあげたとき、あげた家族はどちらが幸せでしょう。答えは明らかではないでしょうか。
◆プロフィール
小林 照(こばやし あきら)
1968年、長野県生まれ
学生時代は社会福祉を専攻し、介護ボランティアに携わる。2005年、不動産会社起業。現在は病気を機に仕事をセーブし、死生観、生きる意義を見直し、仏教を学び中。