ビジョンに思うこと / 松本 満(ホームケア土屋 関西 兵庫エリアマネージャー)

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

個人プレーか チームプレーか

オリンピックのメダルラッシュが続いています。メダリストたちのインタビューを聞くたびに、感動することがあります。もちろん、本人の並々ならない努力のおかげだと思いますが、「これは自分一人で勝ち取ったものではありません。コーチ、チームをはじめ、周りの人の支えてくれた方々のおかげです」と褒め称えていることに、「さすがだなあ…やっぱり一流だ」と尊敬してしまいます。

実るほど頭を垂れる稲穂かな、とはこういうことかなと思います。

どんな個人プレイでも、他人の力なしには、成し遂げられないということではないでしょうか。

介護も、同じかと思います。

私が介護職に入ってきたときに、よく先輩たちが「わたしが…あの人はこうだけど、わたしはこう…わたしのおかげ…わたしはこうする…」と言い合っているのを聞いて驚きました。

まして、初めての介護職だった私に、10人が10人とも「わたしはこうだから…」と指導された日には、たまったものではありません。人を助ける仕事なのに、なんで協力し合って、助け合いができないのだろうと思ったことです。

重度訪問介護に携わらせていただいて、改めて、命と向き合い、その責任の大きさと重さを痛感しています。

人を支えるというのは並大抵ではないこと、一人の力では不可能であることを感じています。

改めて、人が生きていくためには、多くの人の力が必要~私もたくさんの人の助けを借りて生きている…ということがわかりました。

「one for all, all for one(ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために)」という言葉があります。

重度訪問介護において、ひとりの人を支えていくためには、多くのマンパワーが必要です。
他職種を含め、多くの人の協力がなければ、支援を維持していくことはできません。まさに、重度訪問介護は、「ひとりを支えるため」のチームプレイです。

頭が足に向かって「お前たちは要らない」とは言えない

これは、聖書からの引用です。よく組織論としても用いられる箇所ですが、組織を「一つの体」に例えています。

体には頭があり、目や鼻があり、手や足があり、様々の器官から成り立っています。それぞれ形も違えば、役割も違います。目立つところもあれば、内臓のように見えないところで、毎日、動いている器官もあります。

しかし、どれも欠くことのできない、重要な部分です。

なので、頭と足が違うからと言って、「お前は要らない」とも言えないのです。頭があっても、足がなければ行動できませんし、目があっても、鼻がなければ匂いを嗅ぐことができません。

要は、形や役割が違えども、どれも必要な器官であり、なくてならないものだということです。

それと同じように、私たち一人一人も形が違えば、パフォーマンスも違います。性格も、バックグラウンドも違います。

でも、その一人一人が集まって、一つのことを成し遂げるのが、仕事ではないでしょうか。

一人一人違うからと言って、「お前は要らない」とは言えないのです。役割における立場の違いこそあれ、「存在」に優劣もないのです。

目指す目的(ビジョン)を知り、自分が何ができるのかを知り、それぞれが自分の役割を果たしながら、お互いが協力し、補い合い助け合っていく…何よりもお互いを認め合っていく…そんな会社でありたいと願います。

弱く見える部分がかえって必要

実は、先の言葉に続いて、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と言っています。

これは驚くような言葉です。

一般論として、弱さや失敗などは、敬遠されがちです。しかし、「弱さこそ必要」と説いています。

私もこの真意を深く理解しているとは言い難いです。なぜなら、弱さや失敗はダメなもの、隠したいものだと思うからです。そこから、強がってみたり、他者を非難して自分が優位に立とうとしたり、ねたみが起こったり…様々な嫌なものが湧いてきます。

弱肉強食の価値観が刷り込まれている私たちには、なかなか「弱さ」を受け入れることは難しいのかもしれません。

しかし、よく考えてみると、「弱さを受け入れた人は強い」と思います。オリンピック選手も、自分の弱点と向き合ったからこそ、打ち勝ってきた勝利があります。

文明の発達やあらゆる分野の成長も、弱点の克服、失敗からの学びの連続だったのではないでしょうか。

また、弱さと向き合うことで、新しい知恵が与えられ、弱さを共有することで仲間意識が生まれ、弱いからこそ力が発揮され、弱さのゆえに、新しい境地が開かれていくこともあります。

要は、弱い=駄目なのではなくて、弱い=ありのままを認めようということではないかと思います。

あるALS患者さんの言葉です。
「病気は確かに仕事、野心、社会的な地位、自由、ことば、そして命も含めて多くのものを奪い続けています。にもかかわらず、まったく失っていないものもあり、なおかつ病気になって得たものも確かにあります。

・・・

私の毎日は、<成長と後退><獲得と喪失>のドラマがあります。それらは対立するものと考えていました。でも、あらためて振り返ると、対立ではなく、互いに補うものと感じているようです。

首の座らない赤ちゃんをそっと抱き上げると、なんとも表現しがたい、やさしい気持ちになれます。弱い者に対するいたわりの気持ちが生まれます。ここに「弱さ」のもつ大切な意味があると思います。

強さは、人をはじき、弱さは、人を結びつけるのです。

無駄なものがそぎ落とされて、はだかになったたましいが感じたものは、人のぬくもり、共にいる幸せでした。」

私たちは、「人を助ける」のが仕事です。しかし助けているつもりで、実は、「助けられている」のかもしれません。クライアントさんから、学ばされ、教えられ、本当に大切なことに気づかされ、時には励まされ、力をもらっていることがしばしばあります。

ノーマライゼーションという言葉がありますが、「障害があっても、普通に生活できる社会」づくりを目指し、私たちも手助けをしているつもりです。

でもいつの間にか、「助けてやっている」「助けてもらっている」、「してやっている」「してもらっている」という関係になっているのかもしれません。

実は、そうではなくて、「障害や病気があってもなくても、お互いが支え合っている」=共存というのが、本来の姿なのかもしれません。

弱かろうが何だろうが、ありのままの自分、ありのままの他者を認め、素直に受け入れ、自然と補い合っていく、そんな会社、社会でありたいと願います。

 

松本 満(まつもと みつる)
ホームケア土屋 関西 兵庫エリアマネージャー

 

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