『手を叩くほどの喝采を』【前編】 / わたしの

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

『誕生日なんてなければいいのに』の続編

児童相談所の暗いロビーのソファに座って、冬治(フユジ)は壁に掛けられている不釣り合いなほど大きな時計の針が刻々と進んでいく様に目を向けていた。
盤面には可愛らしく誇張された動物たちが描かれ、長針の先には困ったような顔をして滑稽に逃げ惑う道化師が描かれていた。

午前0時48分

この時間がいつ終わるのかも、これから何が起こるのかもよく分からない。

冬治をここまで連れてきた峰田という中年の女性職員は、冬治をソファに座らせるとしばらくここで待つように指示し、事務室に入って行った。
丸く切り抜かれた事務室のくもりガラスから蛍光灯の明かりが漏れていたが、声は何も聞こえなかった。

このロビーの暗さといい、広さといい、ソファの質感といい、まるで総合病院の待合いだ、と冬治は思った。深夜の総合病院の待合いは慣れ親しんだ場所なので、ここもそれほど違和感がなく過ごせる。
慣れ親しんだ場所ではあるが、好きかというとそうではない。
できればお邪魔したくない場所だ。
ただ馴染みだけある。腐れ縁という奴だろう。

総合病院の場合、大概は救急車で運ばれる母親に付き添ってやってくる。

遠くから近づいてくるサイレンにはじまって立ち入ってくる救急隊員の衣擦れの音。矢継ぎ早に投げかけられる質問やバイタルチェックの機械音。
喧騒とともに救急車に乗り込んで静寂の夜を赤色灯で切り裂いていく。

ストレッチャーで運ばれた母親の処置を暗いロビーで待っている間、それまでの一連の騒ぎが嘘だったかのような静けさが訪れる。
非常口を示す緑色のランプが淡く灯るロビーでひとり待っていると心が粟粒立つ。その心が粟粒立つ感じもまた冬治にとっては慣れ親しんだものだった。

午前1時20分

峰田が事務室から出てきた。
木製のトレーに温かい紅茶の入ったティーカップをのせて、脇にクリップボードを挟んで冬治に近づいてきた。
そしてトレーごと冬治に渡してすぐ横に座った。

「ごめんね、テーブルがないから」

そう言って冷めないうちに紅茶を飲むようにすすめた。
冬治はトレーを膝に置いてうつむいていた。窓から入ってくる外灯の光によって紅茶の湯気がうっすらと照らされている。

「冬治くん、児童相談所ははじめてだったかしら?」

冬治は下を向いたまま目だけ峰田に向けた。

峰田は手首に付けていた茶色いシリコンのヘアゴムでパーマのかかった髪を後ろで一つに束ねながら、

「たいへんだったね」

と、同情を込めた声色で言った。

「別に、いつもですから」冬治は答える。

「あなたは何年生?」

「6年」

「そうか、じゃあ12歳かな?」

「・・・」

「少しお話を聞きたいんだ。
今日起こったことを教えてほしいの。ご近所さんからの通報内容が正確なのかどうなのか確認したいんだけどいいかしら?」

そう言ってクリップボードの白紙にペンを走らせる。

「夕方、お母さまは大きな声で誰かに電話しているようだった。時々、笑い声が聞こえてきた。庭に面した窓とベランダの窓が開いていたので内容までは分からないけれど笑い声だけはよく聞こえていた。とても愉快そうだった。
どうかな?」

なんだか恥ずかしい気持ちでいっぱいになる。
思い出すのも嫌だ。

支離滅裂だった。

誰が通報したのかは知らないが、その人がもし会話の内容を聞き取れたとしてもきっと意味不明で、何を言っているのか分からなかっただろう。

母は古い友人と電話しているようだった。

今すぐ連れに来てよ、これからすぐ来て、一緒に旅行に出掛けましょう、と電話口で執拗に誘っていた。心配して近づいた冬治には相手の言葉は聞こえないけれど、相手が困っている様子がなぜだか伝わってくる。
それでも構わず、何が食べたいの?食べてから飛行機に乗りましょう!それとも電車がいい?早く旅行に出掛けましょう!と誘い続け、時折脈略もなく大笑いしていた。

振り切ってしまっている母の笑顔を見て、またか、とがっくり力が抜ける。
テーブルの上には飲みかけの赤ワインが置いてあり、床には薬を大量に飲んだらしいゴミが散乱していた。

キッチンの小窓からは西日が射し込んでいた。ガラスでできた透明な水差しの縁を照らしギラギラと紅く光っていた。
夕刻になると東から涼しい風が吹いてきて立秋の日差しに熱せられた地表を少しずつ冷やしていく。

もうすぐ夜が訪れる。

母は電話を耳と肩で挟んだまま赤ワインの蓋を開けて飲みかけのグラスに注いだ。

今夜、飛行機で出掛けましょうよ!

無理?

明日?

じゃあ明日の5時に迎えに来て。約束ね。バイバーイ!

そう言って電話を切ると母はスマートフォンをソファに投げつけた。2回バウンドして床に落ちた。その様子を見てまたケタケタと大きな声で笑い出した。
笑いながら部屋の隅にいた冬治と目が合った。

「レイニードックになることも知ってるのよ」と、言った。

「冬治、私だって馬鹿じゃないから知ってるの。馬鹿だけどね、大概馬鹿だけど、馬鹿じゃないから知ってるの。
ちゃんと話を通しておかないとレイニードックにされる地域でしょ。結構怖いのよ。そんなものどうでもいいって分かってるのよ。でもさ、私がどう思うかじゃなくて、みんながどう思うかが大事だから。レイニードックになることも知ってるのよ」

意味がさっぱり分からない。

「なんだよ、レイニードックって」と思った。

しかし問い直すことはしてはいけない。問い直すことは無駄だし、危うい方向へ話が展開されていく恐れがある。
流れに沿っていくこと。
とにかく身を低くして銃弾が飛び交う中を進んでいくこと。

冬治はただうなずいていた。

「私だってね、冬治、好きでレイニードックになるわけじゃないの。でも仕方ないの。
旅に出るなら夜の飛行機って言うから。これから迎えに来てもらえないかしら?電話してみようかな」

赤ワインを片手に、床に崩れるように座った。
ソファの下に転がったスマホを手探りして拾おうとしていたので、

「明日来てくれるってさっき言ってたよ。よかったね」

と言って気分を害さないように否定はせずなんとか電話させるのを食い止めようとした。

「いつ?」

母は朦朧とした状態で顔を冬治に向けた。

「誰が電話したの?」

呂律が回っていない。

「ついさっきまで誰かと電話してるみたいだったよ」

言葉を慎重に選んで答えていかないとどこで爆発するか分からない。
酩酊している状態は最悪だけれどまだましだ。爆発して暴れて物を壊しはじめるよりずっといい。
だから上手にこの酩酊状態のまま力尽きさせ、眠りにまで持っていきたい。

息が詰まる。

爆発させないように、慎重に。

「だって、冬治、電話で一言伝えておかなきゃ。どう見てくるか分からないんだから。すぐにレイニードックにさせられてしまうんだから。自分は油断してないのよ。できてない。ひどい、駄目な母親だって言われちゃうんだから。私は母親よ。レイニードックじゃない。母親なの。母親。お母さんなの。お母さん。ママ。ママ。そうでしょ、冬治。私は母親なの」

「もちろんそうだよ」

話していることは意味が分からないが冬治はとりあえず肯定しておくことが大事なことを知っていた。

チラッと壁掛け時計が目に入った。
もうすぐ見たいテレビ番組がはじまる、と冬治は思った。先週から楽しみにしていた。見ることができたら嬉しいと思っていた。

しかしどうやらそれは実現できそうにない。

母は赤ワインを飲もうとして口に運べず、薄いクリーム色のシャツの胸元にシミを作っていた。目が完全に座っていた。力尽きるまでもう少しなのだろうけど、テレビがはじまる時間には間に合わないだろう。
諦めることには慣れている。
自分の中の欲望スイッチを切ればいい。
テレビを見て得られる満足感と、自分の希望を優先させて焦るあまり、母を変に促してそこで気分を害され突然攻撃モードに入ってしまうことの恐怖。二つを比べたとき躊躇なく満足感を捨てることを選ぶ。
いずれにせよ結局テレビは見られないのだ。
希望は叶わない。
一度スイッチを切ってしまえば、テレビなんてくだらないものを見たがっていた自分の浅はかさに反吐が出る。
それよりも、目の前のこの危うい状態を乗り越えなければ、と思う。

いつも心がヒリヒリする。

「私は、母親よ。そうよね、冬治」

「そうだよ、当然だよ」そのまま流れに沿って答える。

「当然?」

母親の表情が一気に固くなった。
ヘラヘラ笑っていたのが急に止まって、声色も一層低く棘のある感じになった。

「当たり前ってこと?」

「・・・」

「母親するのが当たり前ってこと?」

「違う、そういう意味じゃなくて・・・」

母がワインのグラスを壁に投げつけた。
ガラスの割れる音とともに白い壁紙に赤ワインが花火のように広がる。

「当たり前でやってるんじゃないんだよ!」

そう叫んでテーブルの上の皿やお弁当箱やボトルやチラシなどを腕で薙いで床に落とした。
酒と睡眠薬でフラフラになっている母は椅子を食器棚に投げつけた。椅子の重さでバランスを崩し、激しく体をテーブルに打ちつけた。

「痛い、痛い!」とわざとらしい叫び声をあげた。

冬治は一歩下がってガードを固める。
フィジカルな守備の体勢を取るのではなくて、心のガードを固くして自分がぶれないようにする。

これから母が様々な行動や言葉で揺さぶってくるだろうがそれに動じないような構えを取ったのであった。

もうすぐ夜がくる。

【中編】につづく

▶冬治のことを詳しく知る→『誕生日なんてなければいいのに』ご一読していただければ幸いです。

 

 

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