平和の対極にあるのは何だろう / 安積遊歩

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

教会のクリスマス会に呼ばれ、「平和について思うこと」というテーマについて、小グループにわかれて話しをした。私は7人のグループのリーダーシップをとった。それぞれ、年齢にバラエティがあったので、いろんな話を聞いたが、障害をもっているのは私だけだった。そこで私がした話を簡単にまとめてみる。

私にとっては、平和の反対語は暴力だ。戦争は、なかでも最大の暴力だから、戦争の中に平和はみじんもない。日本には、空にミサイルが飛び、大地に地雷が仕掛けられる、いわゆるそういった戦争は今はない。しかし、争えない身体をもつ私たちにとっては、さまざまな暴力があちこちにあって、とても平和な日常であるとは言えない。

まず日常にある最大の暴力が優生思想である。優生思想とは、「障害をもって生まれてくること、もつことは不幸である。」という考え方。国連の統計によれば、人口の15%には障害があると言われている。また、幼い時や年をとってからの身体状況は、障害を持っているのとほとんど同じだ。にも関わらず、そうした人々や自分自身のそうした時代を不幸だと考えてしまうのだから、平和は本当にこないわけだ。

突き詰めれば、「争えないということは不幸だ」ということになっているわけだ。絶えず人は、争いを求めて狂奔し、私よりあっちの方が優秀だとか、物持ちだとか、稼いでいるとか、自分を比較、評価の中で叱咤し続ける。これまた自分で自分を肯定し、自己信頼を育めるはずはない。

そんな中生きていると、時にその刃はお腹の子どもにまで向かう。出生前診断や検査で、90%以上、ほぼ100%の人が「その子には障害がある」と言われたら、中絶するという。

私は1996年に私と同じ身体の特徴を有する娘を生んだ。先天性骨形成不全症と診断されているが、私にとっては骨の折れやすさを含めて私自身なわけだから、不全と決めつけられるのも医療からくる暴力と思っている。

その上、医療の現場には様々な暴力が渦を巻いていた。ところで先日スウェーデンの先住民の差別との闘いの歴史を描いた映画を見た。「サーミの血」というもので、その中に、私もされてきた屈辱、恥辱を強いられる身体チェックのシーンがあった。先住民の彼らがスウェーデン人より劣ることを実証するために身体の様々な部位を計測し、最後に素っ裸にして写真を撮る、というシーンだった。被写体にされた子たちは1930年代の先住民政策の中で、寄宿舎に集められた子どもたち。

しかし私がされたのは、1960年代の医療施設で、そのシーンを見て、その時の感情を激しく思い出した。とにかく争えない身体に作り替えようという、医療のリハビリテーションが暴力となって、いまだ私たちに襲いかかっているのだと私には思える。

娘とは同じ易骨折性の身体の特徴を有しているが、それは私にとって親子愛を超えた同志愛をも感じる誇りとさえなっている。

こうしてさまざまな言葉に気付き、私たちの争えない身体を不幸と決めつける社会に「それは違う。」と言いまくることは、まず私たちの平和活動だ。核兵器反対や戦争反対はあまりにも当然だが、日常にあるこうした様々な暴力に「否」を言っていくこと。これもまた優生思想の暴力を止めるための、平和活動なのだ。

 

◆プロフィール
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ

骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。

著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。

2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。

 

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