1963年(昭和38年)4月、仙台第二高等学校に入学。私は1年H組大澤先生のクラスである。クラブ活動は水泳部に入る。
クラス内というより水泳部で一緒の生徒と親しくなった。中でも目黒泰一郎君と親しかった。
目黒君は牡鹿町(現石巻市)の牡鹿中学校出身。
「自分は地元では秀才だったが、仙台の秀才には敵わないと思い知らされた」という目黒君だが、実は相当の秀才である。東北大学医学部を卒業して仙台厚生病院の院長を経て理事長を務めている。
宮城県知事時代、情報公開が県政の重要課題だった。「浅野、俺のところでも情報公開をやる」といって、厚生病院に救急で運ばれてくる患者の手術現場を、テレビ画面で家族にも見せる試みを始めた。改革志向の目黒君らしい。
高校三年生になって親しくなったのは、これまで一度も同じクラスになったことがない加藤俊一君。
角田の中学校出身で、我が家の近くで下宿暮らしであった。学校の帰り道、彼は我が家に立ち寄り、窓越しに話をしていく。
加藤君は「受験、受験ばかりの高校生活はおかしい」といったことを言い募る。議論はその日のうちには終わらず、そのあと手紙の交換というのもやっていた。
当時の日記は今も手元にあるが、その日記にひんぱんに「加藤俊一」が出てくる。「加藤君ほどいい人間はいない」と書いた次の日には「加藤ほど嫌な奴はいない」となる。
親交が密接であるからこそ愛憎半ばするとなるのだろう。
その後、加藤君は東海大学で小児科の医師になり、造血幹細胞移植の分野で数々の成果をあげた。
高校卒業後45年、私がATL(成人T細胞白血病)を発症した時に、事実上の第二主治医を買って出たのが加藤俊一先生だった。
「当時の日記」には、加藤君以上に頻繁に出てくる名前がある。仙台二中3年12組のマドンナ、長谷田玲子さん。
当時の県立高校は男女別学、長谷田さんは宮城第一女子高、私は仙台二高に進学した。
離れているからこそ募る片思い。高校1年と2年の日記には、長谷田さんへの思いが綿々と綴られている。
「♫出すあてなしの ラブレター/書いて何度も 読みかえし/あなたのイニシャル 何となく/書いて破いて すてたっけ♫」(永六輔作詞「おさななじみ」5番)。
私は破いて捨てなかった。内容はラブレターではなかったが、手紙の最後に「私はあなたのことが世界中で一番好きです」と書いて投函した。
返事は全く期待していなかったが、返事が来た。「あなたを尊敬しています。これからも私の良いお友達になって下さいね」と書いてある。
何度かの手紙のやりとりの後、4月11日(日)東北大学植物園で「デイト」をした。「中学校の時一緒だったのに浅野君とお話するのははじめてね」。長谷田さんがハスキーヴォイスで口にする。
「おつきあい」は長く続かなかった。高校を卒業して私は東京に、長谷田さんは山形に。遠距離恋愛なんてなかった時代、いつの間にか疎遠になる。
再会はそれから30年後。出張で名古屋に行った時に、二児の母親になった玲子さんとお茶を飲んだ。リウマチを患っていることはその時聞いた。
その後、玲子さんから、彼女が会長をしている「愛知県リウマチ友の会」で講演をして欲しいとの依頼があった。
名古屋で講演をした日、玲子さんはくも膜下出血で入院中であった。「こんな姿を見せたくない。お見舞いには来ないでほしい」とのメッセージがあり、見舞いには行っていない。
それからしばらくして、玲子さんの訃報に接した。
仙台二高第18回卒業生は408人いるが、そのうちの有志が「一八会(いっぱちかい)」という同窓会(飲み会)を催している。
2ヶ月に一回、仙台市内の居酒屋でやっている。この一八会の仲間たちは、それから27年後の宮城県知事選挙でものすごい力を発揮する。
◆プロフィール
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし
「明日の障害福祉のために」
大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。
2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」。