土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)
自立生活センターの友人から、「障害者だけではない、健常者の方もバリアがある」という内容で書いてほしいといわれ。。。思いついたのは、私にとってバリアともいえるのが、女性であるということだ。期待通りなのかわからないが、今日(3月8日)は国際女性デイでもあるので、このテーマで原稿を書くこととしたい(この原稿は自立生活センター北の機関誌で分割掲載の予定です)。
1.「女性の生きづらさをなくす政治を」
2022年3月8日の東京新聞の1面には、上記の表題とともに新法「困難女性支援法案(仮称)」が今国会に提出されることについての記事があった。法律の内容もさることながら、ここで重要なこととして取り上げられていたのは、超党派で女性議員がこの法律の制定に尽力したということだった。さらに衆議院では9.7%、参議院では23.1%しか女性議員がいないことを取り上げ、「女性が法整備を求める声を上げても、男性ばかりの国会ではなかなか取り上げられない」という三重大学教授岩本氏のコメントを載せている。
ではなぜ女性議員は少ないのか。
自民党幹事長代理の上川陽子氏は、「政治家は『私』でいられる時間はなく、心身ともにハードワークだ。家庭との両立や家族の同意など、特有のハードルも多い」と述べ、女性議員を増やすための自民党の対策として「党では女性を増やすための政治塾に力を入れ、議員も輩出している」と説明している。
一方、立憲民主党の西村智奈美氏は、「家事、子育て、介護など家族的な責任を負うことが多い女性の思いが、政治に生かされていない」と述べ、これまで保育や介護などが、「『家の中でやっていた仕事で、その延長戦』と思われている」ため、待遇が改善せず、それも多くは今も女性が担うため、賃金が安くてもいいという価値観が残ったままであると指摘している。
立憲民主党では、女性議員を増やすために、「党内に子育てや介護を担う女性候補者や議員を支援するチームを新設」し、子どもの保育園への送迎など具体的な支援を行うための補助や助言者の設置に取り組んでいるとのこと。しかしながら、西村氏が議員を20年以上継続できたのは「やりがいがあったから」という。
両者の意見、課題の認識はできている。またなんとか変えようという意欲は買うが、「政治塾」や「助言者」と実質的な意味があまり感じられず、がっかりだ。補助(金?)を用意している点で、立憲民主党には多少の具体的な支援がみられるが、記事を読んだだけでは大したことはなさそうだ。両者に共通するのは「精神論」。“私たちも頑張ってきた。志があればやり通せるはず”という、実に古臭い精神論だ。そんなもの、誰も期待していない。
「公」と「私」を分け、「公」に重きを置く政治を続けていたら、何の変化も生まれない。むしろ政治は「私」の課題を解決するためにあるのではないか?であるならば、「私」の領域での経験を生かして、課題の解決に乗り込んでいかなかったら、女性が議員になろうが、ただ女の顔をした、中身が男の、今までの女性政治家と大して変わらない。
さらに言えば、海外の女性政治家たちは、例えばニュージーランドのアーダーン首相を皮切りに、みな自分たちの私的な時間と公的な時間を融合している。公の中に私を入れ込んで、それでもやっていけるようにしているのだ。政治家は『私』でいられる時間がない、などといっているような人には改革は難しいだろう。
2.ケアするのは誰か?
家事や子育て、介護などいわゆる私的領域において行われるとされているもの、それはケアと呼ばれる。そしてケアを担ってきたのは従来女性であった。フェミニスト政治学者のトロントは、その著書『ケアするのは誰か』の中で、ケアを非常に広く定義し、「ケアとは人類的な活動であり、わたしたちがこの世界で、できるかぎり善く生きるために、この世界を維持し、継続させ、そして修復するためになす、すべての活動を含んでいる」(トロント 2020:24)と述べている。
実際、そのようにもとらえることができるだろう。ケアは注意を向けることであり、ニーズを発見し、それを具体的に満たすための行為を行い、さらに提供したケアが十分だったのかを確認する作業まで含む。ケアは提供する側と受け取る側があり、そのため常に権力構造の中に置かれている。ケアはまた時間のかかる厄介な仕事でもあって、従来力の弱い者に押し付けられてきた。いいかえれば、ケア実践を免責される人たちは力でケアを他者に押し付けてきたのである。こうした不均衡な状況を何らかの形で平等にしていくためには政治が必要になる。そこに当事者が参画することがより実質的な決定を可能にする。この時、当事者とはだれか。
当事者とは提供する側でもあり、受け手でもある。ケアの広い概念に従えば、あらゆるカテゴリーの人たちが参加していくことが求められていることになる。トロントの著書を翻訳している岡野八代氏はここで、「自分のことは自分で決める」と記し、nothing about us without usの訳としている(岡野 2020:147)。障害者運動の言葉として理解されてきた(少なくとも私はそう理解してきた)「私たち抜きに私たちのことを決めないで」は、「あらゆる者にかかわる事象は、それに関わる者すべてのひとが決める」という民主主義の原理と合致するのだ。
3.これから目指される方向性
あらゆる者、最近の言葉でいえば多様性、ダイバーシティということになるだろう。多様な人々がそれぞれの立場から社会にコミットしていくことが今後の社会に期待されているとしたら、そのために必要なのは何か。マジョリティとマイノリティの不均衡を是正していくため、これまで行われてきたのは、マイノリティの歴史や文化など、マイノリティの側を理解するような手法だ。ジェンダー教育や障害者問題もそうだろう。マイノリティ側が差別や偏見を経験し、いかに不利益を被っているのかを伝え、理解を促してきた。
これに対し、心理学者の出口真紀子氏は「こうしたアプローチに決定的に欠けているのは、マジョリティ側の人たち自身の持つ特権を自覚し向き合う」ような視点であるという。従来のマイノリティの問題を提起する手法では、それに興味を持った人たちしかコミットしてこない。だが実際に社会を変えるのは、マジョリティである。
LGBTの研究を行った四元正弘氏は、「マイノリティの人権は理念的に極力守られるべきだが、具体的にどういう風に、またどこまで守られるかは多数決に従ってマジョリティが決める」(四元・千羽 2017:75) と述べている。すなわちマジョリティの側に彼らの特権に気づきを与え、それを是正すべき課題として認識させなければ何も変わらないのである。
最初に取り上げた新法「困難女性支援法案」の成立の記事に戻ろう。記事には以下のような記述がある。「法案提出に向けた議論や党内調整には、男性議員も精力的にかかわってきた。別の女性議員は「女性だけの解決には限界がある。生活者の問題に熱心な男性議員も増えている」。
このような「特権集団の人々の中で、自らの意志で被抑圧集団の人々の利益を支持する、あるいは社会的に特権をもたらすシステムを打ち壊そうとする人々」(ゴッドマン 2017:234)のことをアライという。アライの存在が社会を大きく変えていくことになるだろう。ジェンダー問題については、男性のアライ、障害者問題については健常者のアライ。今まで敵としてみなしていた人たちの中に理解者を作っていくことが今後大きな力になっていくのではないだろうか。
ダイアン・グッドマン著 出口真紀子監訳 田辺希久子訳 2017 『真のダイバーシティを目指して』上智大学出版
四元正弘・千羽ひとみ 2017 『ダイバーシティとマーケティン グ』宣伝会議
ジョアン・C.トロント著 岡野八代訳・著 2020 『ケアするのは誰か?』白澤社発行 現代書館発売
◆プロフィール
田中 恵美子(たなか えみこ)
1968年生まれ
学習院大学文学部ドイツ文学科卒業後、ドイツ・フランクフルトにて日本企業で働き2年半生活。帰国後、旅行会社に勤務ののち、日本女子大学及び大学院にて社会福祉学を専攻。その間、障害者団体にて介助等経験。
現在、東京家政大学人文学部教育福祉学科にて、社会福祉士養成に携わる。主に障害分野を担当。日本社会福祉学会、障害学会等に所属し、自治体社会福祉審議会委員や自立支援協議会委員等にて障害者計画等に携わる。
研究テーマは、障害者の「自立生活」、知的障害のある親の子育て支援など、社会における障害の理解(障害の社会モデル)を広めることとして、支援者らとともにシンポジウムやワークショップの開催、執筆等を行い、障害者の地域での生活の在り方を模索している。