『パパは新米支援員』 中編 / わたしの

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

「ハッピーデイとは何かというところから説明した方がいいですね」

と、乃亜(ノア)は言った。

「虎吉さんはこの仕事に就いてからハッピーデイの企画をするのははじめてですよね」

「ああ」と、虎吉は答える。

「ハッピーデイは簡単に言うと利用者の幸せを追及する日なんです」

乃亜は穏やかな口調でそのように説明した。

日中に利用者と活動するデイルームと呼ばれる部屋は、利用者が帰った後は職員たちの休憩場所となり、休憩が終わるとそこで一日の振り返りを行う場所となった。ミーティングは16:45から17:15までの30分間行われ、一日の出来事をみんなで共有したり明日のシフトを確認する時間だった。
今日は時間を延長して来月行われるというハッピーデイについて話し合いをするのだそうだ。

部屋には夕暮れの黄みを帯びた光が差し込んでいた。使ったタオルやシーツを洗濯し休憩時間中に干しておくので洗濯石鹸の匂いが心地よい。
部屋に配置されているロッカーなどがプールの更衣室にあるようなくすんだクリーム色の無機質な物なのが部屋全体の印象を暗いものにしていた。

長机を4つ付けた広いテーブルを囲んでグループの職員が集まっていた。
虎吉のグループは8名の利用者が所属しており、支援に当たる職員は虎吉を含めて4名だった。そのリーダーが乃亜である。

「眩しい奴」

それが乃亜の印象だった。まるっきり自分と違う人間であることが全体のオーラから了解できるし、話せば話すほどその印象は間違いないものであることが確実になっていく。

高校時代から福祉の道に進むことを目指して福祉系の大学に進学し、現在この仕事に就いてキャリアを積んでいる乃亜の人生設計の確かさは、人生成り行きで来ている虎吉にしてみれば「それは人のなせる業なのか」と、信じられないものだった。

自分が乃亜と同じ29歳のときに何をしていたかと思い出すとロックスターに憧れて売れないミュージシャンとして月に一回LIVE をし、そのLIVE を開催するために深夜のコンビニでアルバイトをしていた。完全に昼夜逆転の生活を送り、高田馬場の安いアパートの一室で夕方下校する小学生の声で目覚めることも多かった。そんな時は生活の虚しさを感じ「何のために生きてるのだろう」と布団の上に座って考えていたものだ。

胸が苦しかった。本当はミュージシャンとしての生活に限界を感じていた。いや、ミュージシャンと言い張るのに限界を感じていた。それでいてもその生活を改めるだけの根性もなくズルズルと惰性で生き、ステージでスポットライトを浴びる瞬間にだけすがり、それ以外はアルバイトとパチンコと酒で時間を埋めていた。

女に惚れることも惚れられることもあった。苦しい生活の大部分を女に助けてもらっていた。しかし時に、鬱屈してたまったフラストレーションをぶつけてしまうのも女だった。ミュージシャンとして認められない辛さを味わうとそのイライラをストレートにぶつけた。何人をも、何度も、裏切った。ろくでなしの大馬鹿野郎だった。

「まったく偉いよ」

乃亜を見ていると自分の愚かさが浮き彫りになる。乃亜だけではなかった。グループでともに働く他の二人も真面目でお人好しで「いい子」たちだった。
入職三年目の女の子心海(ココミ)。
それから大学を卒業したばかりの新卒採用の快斗(カイト)。

乃亜─心海─快斗のトライアングルにある日突然虎吉(アラフォー)が飛び込んできたのである。

虎吉の前任者は産休中のママさんであり、その代替として虎吉が非常勤職員として雇われたという訳だった。

「利用者はいつも創作したり封入の仕事をして働いていますよね」乃亜が言う。

「だから働くだけではない喜びというか楽しみも経験してもらいたいというのがハッピーデイのコンセプトです。人それぞれハッピーは違うじゃないですか。ハッピーデイの企画も人それぞれ違っていいと思うんですよね。今日はそれをみんなで考えたいと思います。いいですか?」

「はい」と心海と快斗は答えた。

遅れて「はい」と心弱く虎吉も返事する。

普段、利用者は企業から受注した複数枚のチラシをひとまとめにして封入する仕事やビルの清掃の仕事、飴を箱詰めする仕事を日中行っていた。
はじめてその風景を見たときにまず障害のある人も働いていることに驚いた。偏見なのだろうけれど障害のある人は働いていないと思っていたのだ。無理して働かなくてもいいとも思った。
しかし、傍らで見ているとみんな結構生き生きと仕事に臨んでいるので働くことが嬉しいんだな、と感じた。

作業の他に毛糸で編み物をしたり陶芸で変な形のお皿を作っている人もいた。

普段は仕事が中心の活動なのだが、一人あたり月に一回ハッピーデイというものがあり、その時は仕事はせずに好きなことをしてよいのだと言う。
しかし、重度の知的障害のある方にはなかなか自分で自分の好きなことをする日の計画をたてたり、それを実行するのが難しい人がいる。それをサポートするのが職員の役割とのことだが、そもそも好きなことが何なのかが分からない場合の方が多い。

例えば幹太に「何をしたいですか?」と聞いてもその質問が漠然としていて答えられないのか、はっきりと答えているけれどこちらがその意味を受け取れないのか、答えがよく分からないのだ。

そこで職員は幹太の気持ちを日常の関わりをヒントにして汲み取らなければならない。また実際に行ってみてその反応から判断してはじめてそれがフィットしていたのか、それとも的外れだったのかが分かるということも多かった。

「じゃあまず幹太さんから行きましょうか。幹太さんのハッピーって何でしょう?」

乃亜がそう言って心海と快斗が考え始める。

「幹太のハッピー?」虎吉も考えてみる。

幹太の幸せってことだろ。あのくるくると回ってる奴の………。幸せ、幸せ、幸せ、幸せ………。

「………」

何だろう?

分からない。

本当に分からない。

しばらくみんな黙って考え込んでいたが心海がおそるおそる口を開いた。
「あの、先日幹太さんが新聞のチラシのたこ焼きをじっと見ていました」

「たこ焼きが食べたいのかな?よし、じゃあ来月の幹太さんのハッピーデイはたこ焼きを食べに行くことにしましょう」乃亜が言うと、

「はい」と虎吉以外の二人が返事した。

えっ?!ちょっと待ってくれよ、それで決まり?虎吉には急すぎて付いていけずおろおろとするばかりだった。

「次は大二郎さんのハッピーデイを決めましょう」
乃亜は構わず話し合いを進めて行く。

「大二郎さんは最近ずっとポテトと言ってます」
快斗が発言する。

確かに大二郎と呼ばれる利用者は日中の仕事の場面で突然「ポテト!」と声を出すことが続いていた。何の脈略もなく「ポテト!」と言い、その「ポテト」が一体どうしたのか、食べたいのか、発音したいだけなのか、「ポテト」と呼んでほしいのか、好きなのか、嫌いなのか一切何も言わなかった。

「先日一緒に散歩していたらマクドナルドをチラッと見てました」心海が言った。

そりゃ見るよ、虎吉は心の中で思った。

マクドナルドがあれば別に食べたくなくてもチラッと見るよ。人が思わず見るように計算されて看板とかマークとか作っているもの。

「マクドナルドのポテトが食べたいのかな」乃亜が答えを探る。

そりゃそうだろ。マクドナルドのポテトなんて大体の人が食べたいよ。あれば食べるよ。無難に食べたいものだよ。凄まじく嫌いなんて人、聞いたことないぜ。

「よし、じゃあ大二郎さんのハッピーデイはマクドナルドにポテトを食べに行くってことにしましょう」乃亜が言うと二人が頷いた。
えっ?!虎吉はまた唖然としてしまった。

「では次に…」

「ちょっと待ってくれ」乃亜の言葉を遮って虎吉がとうとう口を開いた。

「虎吉さん、何でしょうか?」まだ何も言っていないのだが三人の顔が一瞬曇ったのが分かった。しかし、もう後戻りするのも面倒臭い。とりあえず言ってみようと心を決めて虎吉が発言した。

「待ってくれよ。あのさ、このハッピーデイって奴はさ、食べたいものを食べに行くって日なのか?」

「違いますよ」心海が言う。

「でもさ、たこ焼きだのポテトだの食べ物の話しかしてないじゃん」

「虎吉さん、ハッピーデイというのは利用者一人ひとり、それぞれの幸せを追及するって言うのが目的です。別に食べ物にこだわらなくてもいいんですよ」乃亜が答える。

「じゃあさ、たこ焼きを食べるってことが幹太の幸せだってことだな?」

「………」

「別にさ、食べたい物を食べに行く日ですってことであれば全然問題ないよ。今日は寿司食べたいな、ステーキ食べたいなってことが俺にもあるもの。だけどコンセプトが幸せを探すってなるとちょっと待てって言いたくなるんだよ。たこ焼きを食べに行くことが本当にあいつの幸せなのかって引っ掛かっちゃうのは俺だけか?」

虎吉は思い出していた。
好きなものを食べることが幸せだと感じていた時期が自分にも確かにあったことを。あれはいくつの時だっただろうか。

アルバイトを終えて「食べたいもの」を目当てに少し遠いお店までわざわざ出掛けて行ったこともある。最初は「美味しい!幸せだ」と感じた。しかし、何回か通ううちにもう一度あの食べた後の「美味しい!幸せだ」を味わうためにお腹も空いていないのに食べるようになっていた。食べなければならぬになっていた。もちろん食べ終えた後には満足感はなく、どこか不毛な感じを受けた。

飽きちゃった、と表現すればそれまでなのかもしれない。
「食べたいもの」を食べることへの満足感は大概が最終的には虚しいものになってしまうことが多いと虎吉はその時気付いた。

もちろんそれは贅沢なんだということも知っている。飽食の時代に生まれたからこそそう思えるのだということも重々承知だ。貧乏な生活をしていたので一日三食食べられるだけで感謝しなければいけないということを他の誰よりも虎吉はよく分かっている。
しかし、食欲を満たすだけでは幸せは得られないことも知った。知ったというか、何て言えばいいのだろう、それではない「何か」が自分には必要なんだと感じた。

「その何かを探すのがハッピーデイの目的だろ?」

「………」

「それがたこ焼きだったらどんなに楽か。マクドナルドのポテトで満たされるなら苦労はしないよ」

虎吉の言い方もちょっとぶっきらぼうになっていた。まずいな、と感じたけれど時既に遅しだった。みんな何て返せばいいのか分からず暗く黙り込んでしまった。

「だけど…」リーダーの責任感からか乃亜がその沈黙を破って話し合いの空気を変えようと試みる。

「だけど、我々は好きなときに好きなものを食べられるじゃないですか。利用者は食べたいと思ってもそれを実現する機会も手段も少ないと思います。だからハッピーデイが重要なんだと思います」

「だったらさ、やっぱり好きなものを食べに行く日ってことにしたらいいんじゃないの?その方がすっきりするよ。そうしようよ」虎吉が言うと、

「食べることだけが幸せじゃないと思います」心海が真っ直ぐに反論してくる。

「だからそれを言ってるんだよ!」虎吉が言いたかった意見をいつの間にか心海が言っているのがカチンときた。

「食べることだけが幸せじゃないのに何でたこ焼きとかポテトとか食べ物の話しか出てこないんだ?それ以外のことはないのかよ」

「例えば何ですか?」

「例えば?そうだな…何だろうな。幹太って何考えて生きてるんだろうな?どうなりたいと思ってるんだろう?分からんな…」

「出てこないじゃないですか」快斗が突っ込みを入れてくる。

「そうだな…(笑)」虎吉が笑うと他の三人も緊張した面持ちを崩して笑った。少し場がゆるんだ。

「何なんでしょうね?」乃亜も笑っている。

「じゃあさ、幹太じゃなくて、利用者のことじゃなくて君たちにとってのハッピーって何なの?他人のことじゃなくて自分のことなら分かるんじゃない?」そう言って虎吉は三人の顔を順々に見た。

「えっ何だろう?」三人ともじっと考え込んでしまった。

「それなら虎吉さんにとっての幸せって何なんですか?」

「俺か?俺なー。そうだな…」いつもは深く考えることが苦手な虎吉もこの時ばかりは頭をフル回転させて考えようと努力した。

「俺にとっての幸せって何だろう?俺にとっての幸せは………」

~つづく

 

 

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