自分を晒して尚愛す / 牧之瀬雄亮

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

多様性という言葉が巷に泳ぎ出して久しい昨今ですが、なかなか難しい言葉だなと思わずにはいれないのは、「多様性」の暗黙知的前提として、品行方正であることが含まれていたりすること、また、「多様性」の現在におけるメジャーな、主流の解釈が主に適応され、「多様性」の仲間に入れてもらえるということが起こっていることなど見るにつけ、万年少数派でいる肚を決めてしまった私としては、「隅っこで石でも並べてようかな」とか「今日も歩き方の研究やってよう」と思うばかりです。

さて、私は観念的なことばかり申し上げていて、たまには福祉についての記事も書かねばと思い筆を取りました。

私が初めて知的障害者支援に関わった施設で取り入れていた手法を一つご紹介いたします。それは

「プチエピソード」

という手法です。
沿革や考案された方などはおのおのお調べいただくとして、概要をお話し致しますと、

支援者が、日々の支援の中であるお一人の方にスポットを当て、その方との一場面を、出来るだけ詳細な客観的事実と、その時のできるだけ詳細な支援者自身の心理の描写をしたものを他の支援者と共有し、単純な○×の評価を避けて話し合うというものです。

細かな形態は実施される集団や場所によって違いがあると思いますが、概ね大枠はそう違わないと思います。

私は個人的にこの手法を使って深掘りしていくのが大好きです。

例えばある若手職員が、
ある方と散歩をしようとするけどよく立ち止まってしまって、「行きましょう」「もう時間です」と声をかけているのにその方が全く動き出す気配がなく、他のベテランのスタッフなら動くのに「僕はなめられているんじゃないか」という気分になって悲しい

という吐露が挙げられたとして、これを共有された他のスタッフが「私もそう思っている」と言ったとすれば孤独感は薄らいで、「誰それも同じ気分なのだから」と少し心に余裕が出ることが大いにあります。

また「実はその方は『動かそう』とする気配がこれこれこういう理由で嫌なんだ」とか、そんな言葉が出てくれば、次からもう少し相手の気持ちを汲んだ支援をできるようになる可能性が生じます。

また、「あの人は動いてないんじゃなくって足を踏み出すタイミングをずっと測っているんじゃないかと最近思うんですよね」なんて言われれば、「ああそうか。じゃあすでに動き出しているかもしれないという考えで今度は接してみようかな」と接し方の幅が広がるかもしれません。

福祉の現場の問題として、「引き継ぎ、伝承の困難さ」ということがよく挙げられます。直接の身体介助一つとっても、支援者個々人で体格や身体の使い方は様々ですし、言語感覚や学習の回路も違います。
一様に「こうであればいい」「こうすればいい」というものはないというのが、福祉の難しさの一つであり、また究極の面白さの一角でもあります。

プチエピソードは上記に挙げられるような綿密な引き継ぎという側面も持っています。
発表者も様々であれば、それを受け取る側も様々であり、どこかに雛形や似た型を見出せるという機会でもあります。
自分の活かし方を探る機会とも言えるでしょう。
そして、エピソードの登場した方のイメージを、これまで以上に多角的に捉えることにも繋がります。

先に「深堀り」と言いました。

プチエピソードの面白さは、相手をよく観ること以上に、実は発表者の自己開示にあると考えています。

「支援者」と呼ばれる私たちは、どの福祉・介護の現場においても、その職場を辞めてしまえば、その煩悶(うまくいかない・悩み)や、それを生み出す人から離れてしまえます。それは揺るぎない事実です。

しかしながら、「ある状況が苦手だ」、「こうなったら僕は私は何もできない」という「動きの型」。これは自分に一生ついて回るものなのです。

その型を一生手放さないことがその後の人生に絶対不可欠で、これしか無いと決め込んでいる場合は止めはしませんが、このプチエピソード的な自己開示をすることで、実は開示した人自身のその後の人生自体が軽くなる作用があると私は考えています。またそういう実例も、私はよく見かけたと付け加えておきます。私自身もそうだった一人です。

ですからこの「プチエピソード」における自己開示は、深くネチョネチョしていればいるほど効果は大きいのです。
どういう効果か。
「とりあえず自分の心理を吐露してみる」
「評価を抜きにして他人に聞いてもらえる」
「自分がもつ陥り方の癖を指摘してもらえる、または自覚できる」

という効果は、ざっと挙げられると思います。

「強がる」「虚勢を張る」ということは、どんな職種においても足元を掬われるきっかけになります。いわば弱点です。
また、これらは単純に言ってしまえば「嘘」なので、世の中の道理として、ひとつ嘘をつき通すには、さらに多くの嘘を必要としますので、精神的に良くないので、とどのつまり健康を害します。

弱点を晒すことで救われ、弱点を誤魔化したり、嘘で隠すことで掬われるとは、随分洒落の利いたことを神様はなさるもんだなと、神の差配とはこういうものかなとぼんやり考えたりします。

知的障害者支援のみならず、福祉・介護産業的に行う団体も少なからず散見されますが、そういう方面では働く側の人間的成長というのはごく限られたものになってしまい、このような手法を「無駄ではない」と価値を見出せるような集団とは、一年二年で支援の質に随分差が開いていってしまうんじゃないかなと思います。

一点付け加えたいのは、私たちは自分のことを何か生まれてこの方、通底した一つの人格、キャラクターがえっちらおっちらやって道を歩くようなものとして個人、一人格として捉えがちですが、簡単に言ってしまえば、

人格は常にひとつではありません。

一人の人間がある場面で判断を下そうとする時、周囲の様々な数多くの影響によってかなり左右されます。
一人の時か、誰かといる時か、天候、睡眠の質、便秘か快便か、空腹か満腹か、良い食べ物か悪い食べ物か、周囲の人との関係性、どのような人と付き合いがあるか、メタ的な物を含めたメディアからの情報などなど。
これらの影響によって、判断は面白いほど変わってきます。

白砂糖などを含むお菓子類を多く食べる方、糖分依存の高い人を見ていると怒りやすい方が多いです。また、他者の話を聞けない方も多いです。
私が正しいか間違っているかではなく、あなた御自身で見て判断してください。

私は長年お酒を飲んでいて、飲んでいる頃はあまり表面に出していないつもりでしたが、かなり他責的でした。
お酒を飲む人が皆そうだという気はありませんが、私はそうでした。
アルコールも組成的には糖に分類されるもので、イライラしたり、アルコールによる内臓の炎症、ダメージもあったことでしょうから、それが精神に作用しないとは言い切れないです。

あと副次的恩恵としては、飲む機会が年に片手で数える位になって三年ほど経った今は、お酒を飲んでいた頃より原稿を書くスピードが極端に速くなりました。

これを一つの成長と捉えるのも構いませんが、原稿が遅いということや、酒を飲み倒すことに当時はある種の必然性と義務感を感じていましたから、変わることを拒んでいればいまの自分の状況にはなっていません。
当時の全ての自分の判断を一人格としてキープし続けたとしたら、いまの自分にはなっていません。

酒を飲み続ける自分と、酒をあまり飲まない自分を、同じ一人格として括って良いのか。甚だ疑問を覚えるのです。

話をプチエピソードに戻せば、そういった自己開示による自己洞察を他者の力を借りながら、支援実施者という枠組みを超えて自分と自分を構成する諸環境という現象をいかに観察できるか、という装置として僕はプチエピソードを捉えています。
面白いですよ。あなたの所属集団で是非やってみてください。できれば私も呼んでください。自己開示で誰かの心が軽くなるのを見ているのが本当に好きなので。

自分の、自分たちの実力を直視するというのは、何においても大事なことです。無論自分ができないやれないということを直視することは、慣れないとプライドと比例してキツいものですが、プライドが邪魔して道々歩き辛いということはよく起こることで、我が身を振り返っても、まだまだ「反省と褒める余地あり」と思っています。

そうです。褒めてもいいんです。両方やるということです。それが直視するということです。誰も褒めないなら自分が褒めたっていいんですよ。それを他人に強要しなければ。

「自己開示、みんなでやれば怖くない」

おあとがよろしいようで。

 

◆プロフィール
牧之瀬 雄亮(まきのせ ゆうすけ)
1981年、鹿児島生まれ

宇都宮大学八年満期中退 20+?歳まで生きた猫又と、風を呼ぶと言って不思議な声を上げていた祖母に薫陶を受け育つ 綺麗寂、幽玄、自然農、主客合一、活元という感覚に惹かれる。思考漫歩家 福祉は人間の本来的行為であり、「しない」ことは矛盾であると考えている。

 

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