20代のときから障害者運動を始めたので、常に20代の友人介助者に囲まれてきた。私が20代の頃は、彼らもみんな20代だった。彼らとの日々は、ボランティアに手を貸してもらっているという意識は全くなかった。また、彼らもはじめは、自分の空いた時間に手を貸してあげようと思ってきたと思う。しかし、私たちは、「それは思い上がった考えだ」と言って、「一緒に障害者差別をなくしてほしいのだ」
と、迫り続けた。だから、関わりのなかで、差別についてよく議論し、自己意識の変革を自覚してくれただろうと思う。
私はその頃、高校進学も大学進学も、学校への送迎がないことと、体の不調で諦めざるを得なかった。その私の前に、同じ20代でありながら、障がいがないというだけで、大学進学を果たし、自分の好きなことをやることに人生を費やすことができる。それに気づいて、その差別をやめ、その自由を分かち合うべき、としょっちゅうケンカも議論もした。
差別に向き合って、それを少しでも変えなくしていくことが目標だった、あの頃。当時の20代の人たちには、私の問題提起を受け止めるだけの余裕も、今よりはずっとあった気がする。彼らの多くは大学生で、大学の単位はそれなりに大事ではあっただろうけれども、人生のプライオリティではないという雰囲気がまだあった。
その後私は、学生の多い街から、ほとんど学生のいない街へと引っ越した。障がいの重い、やはりギリギリ20代だった恋人との暮らしを支えてくれる人を見つけるのは、本当に至難の日々だった。生活の様々を手伝ってくれる人を見つけたく、路上でチラシを撒き続けた。そこで出会ったなかには、かけがえのない介助者になってくれた社会人の20代もいたにはいたが彼らとの生活は厳しいものであった。
そんななか、介助料システムを使って、介助者に給料を払うシステムを作ることができるという情報が届いてきた。そのシステムを多少学び、アメリカから帰って来たとき、私は30代になろうとしていた。そんな中、障がいをもっているということで結婚差別を受けた、20代最後の日々。あまりの辛さで、30代からの日々は東京で始めることにした。そのとき、高校認定試験(当時は大検と呼んだ)をとるために、大学生に受験科目を教えてもらおうとしたので、またまた友人の多くは20代となった。そして、40歳のときには、23歳の若い恋人との間に娘を産み、シェアハウスのメンバーの多くは、20代の人々であった。
50代の3年間は、ニュージーランドに住んでいたので、20代というよりは、娘の友人たち、十代の人々との関わりや、近所の人々との関わりで、初めて老若男女、言葉も肌の色も様々な人たちとの付き合いをした。そして今60代になって、またまた密な付き合いは20代の人との中にある。今回は、特にゆりかのことを紹介したい。
彼女は、H大学の農学部に在籍中に私と出会った。最初からその彼女のユニークさに気づくことはなかった。それでも、初めて来たときに、大量の多少枯れかかった野菜を持ってきてくれたので、畑好きの人なのだな、という印象をもった。しかし付き合っていくうちに、今どきの学生とはまるで違うぞ、ということに少しずつ驚ろかされていった。
今の学生たちは、私が20代のときの学生たちとは違って、大学の単位取得に対して非常に敏感だ。ところがゆりかは、そういうことに全く興味も関心もないようで、私が介助の仕事をお願いすれば、すぐにそれを始めてくれた。また、畑で野菜作りをしたいという熱い思いが充満していた。
その頃私は、タイミングよく、ある畑のスポンサーを少しすることになった。そこでユース畑をつくった20代の若者が4、5人いてくれたが、特に熱心だったのがゆりかだった。けっこう交通量の多い国道をママチャリで片道1時間半か2時間を通い、様々な作物を育てた。また、その畑の仲間たちでメーリングリストを作ったのだが、そこに1番人を呼び込んだのもゆりかだった。
とにかく人と自分との間に、壁や限界が見えないかのように、いろんな人を誘いまくった。あらゆるいのちに、すぐに共感できるという才能があって、私は小さな赤ちゃんのベビーシッターや、私以外の人の介助も紹介していった。
彼女の「やりたいからやっている」のだという姿勢は見事で、差別をなくしたいから関わりをもってほしいとか、また介助料というバイトになるのだから仕事としてちゃんとやってほしい、ということ以上のものが、そこにはあった。つまり彼女は、畑の作物には化学肥料や農薬は全くいらないと知っているのと同じくらいに、障がいをもつ私たちに必要なのは自由であって、その自由を分かち合うことに邁進してくれた。
20代の女性のほとんどが巻き込まれている、美容産業やファッション、ダイエットにも全く興味がなく、ネットにも、しょっちゅう落としまくるスマホを持っているだけで、ノートパソコンも持ってはいても持ち歩くことはない。にも関わらず最近始めた断食は好きだ。1日1食2食抜くのはけっこう平気で、お腹が空くのが気持ちがいいと知っている。それと同じくらいに料理が好きで、新鮮な野菜や発酵食品作りも大好きだ。
また、私から見るとであるが、公衆衛生の概念からも自由で、ときどき心配になるが、お風呂が壊れていたお寺に半年間暮らしている間に、ほとんど1人でお米を育て、去年80kgも収穫したという。しかしここがすごいのだが、「もう少しお風呂に入ってちゃんと洗ったほうがいい」という私の言葉を、熱心に嫌がらずに聞いてくれる。ところが習慣はなかなか変わらないから、お風呂に入ってもシャワーや石鹸を使ってよく洗うということには、興味がない。ただ最近、「ゆりかは温泉が嫌いに違いない」という私の思い込みを、見事にひっくり返してくれた。とにかく自然のものが大好きだから、米ぬかで体を洗ったり、無農薬のミカンの皮をお風呂に入れて、幸せそうだ。
私は優生思想から本当に自由でありたいと思っているが、ゆりかほどその自由さを満喫している人はいないと、心ひそかに思っている。自分が人にどう見られているかに、一切興味も関心もない私とゆりかは、その点は似ているが、彼女にとってはそれが自然だが、私は意識的にそうありたいと思っている。
ゆりかの夢は、自分の土地で、様々な植物を森のように育てていくこと。もちろんその土地を〇〇円で購入しようとか、そういう意識もまるでないから、いつか必ず自然に、そういう土地と巡り合って、その夢が現実にくるのだと、旅をし続けている。
ビバ20代。優生思想のない自由な世界に乾杯。
◆プロフィール
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ
骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。
著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。
2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。