ベジタリアンになったのは、私は二十歳くらいのとき。養護学校の先輩がリュウマチで、彼女はいつも痛みで苦しんでいた。治療にはステロイドが使われていた。大学病院にお見舞いに行くと、彼女の顔がムーンフェイスという副反応でパンパンに腫れあがっていた。彼女には、痛みと共に、その治療を続けなければならないことも非常に苦痛だった。彼女も二十代半ばだったから、それは当然のことだったろう。数ヶ月して退院したという連絡をもらった。そして次に会うまでに数年は経っていただろうか。
彼女の痛みはすっかりなくなり、ムーンフェイスもすっきりと治っていた。手足の変形は残っていたが、嘘のように痛みがなくなった理由が食生活にあると教えてくれた。玄米を中心に、新鮮な野菜と豆腐や納豆を食べ、肉魚は一切食べない。チーズや卵はたまに食べるけれど、絶対に摂らないのがお砂糖で、それを食べるとすぐに痛みが戻ってくる。特に白砂糖はダメで、どうしても甘いものを欲するときには、黒砂糖やきび砂糖を使い、そして果物を摂るようにしているという。
当時私は、1日一回は肉や魚を食べていたし、お砂糖が良くないということは知ってはいたが、そこまで徹底している人には会ったことがなかった。それまで痛みで苦しんでいた大好きな先輩が嬉しそうに話すので、私は心底驚いた。今から47〜8年前の話だから、私は玄米も食べたことがなかったし、そもそも玄米というものがどんなものかさえ知らなかった気がする。しかしとにかく痛みが無くなった彼女に影響を受け、すぐに玄米を食べようと両親に提案した。
そしてそこで初めて玄米が彼らの世代にネガティブで暗いイメージしかないことを知った。私が「玄米を圧力鍋で炊いてほしい」と言っても、二人から声を揃えて拒絶された気がする。肉は少しずつ食べないようにはしていったが、本当に食べなくなるまでには、やはり数年以上はかかったと思う。更に魚は、元々大好きだったので、自分の家以外では、出されればよく食べていた。とにかくゆるゆるのベジタリアンの期間が10年間はあったと思う。その間に、22歳で親元を離れ、好きなだけ玄米を炊き始めた。ただ同時に、コーヒーやタバコ、そしてお酒などの嗜好品も取っていた。考えてみたら、ゆるゆるベジタリアンになった最大の動機は、彼女の痛みが消えたことでしかなかった。
自分の身体での変化を感じてのことではなかったのだ。そして31歳の時にキッチンドリンカーになるまで追い詰められるという差別に遭遇。お酒を飲みながら何度か自殺を試み、腕に大火傷をして、ようやくお酒もお肉も、できれば魚も、全部やめてみようと思うに至った。それを勧めてくれたのが、今は亡き鈴木絹江さんと匡さんである。
二人は当時、マクロビオティックという考え方・食べ方にハマり、私にそれをやるよう強力に迫ってくれた。私は自分の命を自分で殺めるより、この世界からいなくなることを望まれているこの身体を、徹底的に自分で大事にしようと決めた。マクロビオティックは私にとっては、ヴィーガンの元祖のような生き方・食べ方であった。その料理法を習うために東京に引っ越し、60回くらいマクロビオティック料理教室に通った。その教室は、ジャコ一匹食べなくて良いという考え方だったから、それまでのゆるベジとは全く違ったものであった。1年間私は、蕎麦屋で外食をしても、自分用の蕎麦つゆを作り、持って歩いた。また仕事で外泊するような時には、玄米おにぎりを自分のために一食二個ぐらいずつ握り、どこにでも持って歩いた。その後大きく身体が変わろうとしたのか、生理が約四年間すっかりと止まってしまった。
ただ、マクロの食べ方をし始めて2年後には、仕事でよく外国に行くようになった。そこには玄米のおにぎりを持ち込めなかったし、好奇心も旺盛だったので、外国では肉や魚を使っていても、出されたものは美味しくいただくようになった。生理が止まったことを私自身は全く心配していなかったが、なぜかまた来るようになった。マクロビオティックの本には体質改善ということがよく出てくるのだが、そのような時期だったのだと思う。肉や魚を食べず、その上お酒も飲まないと、頭も身体もクリアーになる。私の場合特に生殖器官に、幼い時に大量に撮られたレントゲンによる放射能がたっぷりと溜まっていたのだろう。それが四年間の食生活の変化で、体質改善を促したのだろう。生理が復活して四年後、思いがけなく妊娠し、40歳で娘を出産した。
食生活は何よりも大きな習慣である。全く妊娠を目的にしたのではないにも関わらず、二十歳までの食の習慣を、意識的・自覚的に変えたことによって、娘がこの世に登場することになった。娘もまた、玄米を中心とした菜食で育てた。娘の父親は、全く食にあれこれ言う人ではなかった。それが完全な追い風となって、娘も肉や魚をほとんど食べない人となっていった。続く
◆プロフィール
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ
骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。
著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。
2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。