土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)
“デビル”
日に3度出される食事。質的にも量的にも、旧ソ連の障害児施設でのあれが人に供する食事と呼べるものだったろうか。いや、家畜の餌とも呼べないだろうと、今私はそう思っている。家畜の餌ならば、質はともかく量はある程度確保されていただろうに、その両方がなかったのだ。
朝は黒パン1切れと紅茶、昼は一応スープ、肉または魚の料理、薄甘い干し果物を煮出しただけのコンポートと呼ばれていた茶色いものが配膳され、夜は少量のポテトサラダとパンのみ。読者の皆さんは「昼ご飯は豪華そうじゃないか!」と仰るかもしれない。でも、それは誤解だ。早合点なのだ。
スープは塩味がようやく感じられる程度の生ぬるい液体にキャベツの千切りが数筋、運が良い時でゆで卵半分が浮いているような代物だった。肉料理とは名ばかりで、明らかにスープの出汁を取るために使っただろうと思われる、ゴルフボール2つ分くらいの骨付き肉が出された。が、正確に言えばただの骨なのだ。とにかく肉など殆ど付いていないのだ。その骨片が浮いていたギトギトした油に、1切れ配られるパンを、大事に、大事に浸して食べるしかなかった。
残った骨片はというと、そっとポケットにしまい込み、後で上級生に割ってもらい中の骨髄を吸い出す、という方法で食べていた。
魚料理は殆どがナマズの輪切りを茹でたものだった。直径が6~10センチメートル、厚みが1センチメートルほどの、真ん中に背骨が残っている輪切りが,アルマイト製の皿にゴロンッと転がっていた。皮が真っ黒で分厚くて硬くて、とにかくグロテスクだったのを今でも時々思い出す。味などまるでなかった。
問題はパンだった。黒パンは通常、ライ麦と着色料として使う紅茶またはコーヒーの粉で作るもので、モッチリとした食感と芳醇な香りが特徴的なのだが、あの施設で出されていた黒パンは、麦を脱穀した後に残る「ふすま」という滓で作られていたのだ。もちろん、これは大分後になって知ったことなのだが・・・。
味も、栄養も、量も、何もない食事。今の日本の小学生があの食生活に耐えられるだろうか。想像すらできないだろう。
あの頃、ソ連という国は食糧難に陥っていたことを、後で本を読んで知った。都市部でもパン屋の前に数時間待ちの行列が、真冬の酷寒の中でも毎日できていたらしい。たった1本のバトンを買い求めて。国中がそんな状況だったのなら、施設の食事が粗末でも仕様がないんじゃ・・・、不満に思う方がおかしいんじゃ・・・、と思われるだろうが、実は状況はまるっきり違っていたのだ。
あの施設は国が直轄で運営していた。しかも、ソ連医療の将来をかけた実験的な療育リハビリ施設という意味合いを持っていた。だから食料もちゃんと全入所児に足りるように十分な種類と量が調達されていたのだ。
毎週月曜日に、牛の半身やら何百という数の鶏卵、パン、缶詰類がトラックで運ばれてきていたのを、私を含め多くの入所児が目撃していたのだ。それでは、どうしてあんなにもひどい食事だったのか。その答えはズバリ、職員たちが先に自分たちの分を横抜きしていたからだ。
「貧すれば鈍する」という諺がある。これは、人があまりにも過酷な貧困に陥ると、周囲の他人への思いやりなど失ってしまうほど「鈍」、つまりは「愚かで卑しく」なる、という意味だ。正にこれだった。その上、私たち入所児は人間の数には入らなかったのだから、余計にやりたい放題ができたのだろう。
私たち入所児はしばしば「デビル」と呼ばれていた。デビルとは悪魔それ自身ではない。悪魔の手下を勤める鬼たちだ。そう、しっぽの先が鏃のような形をして、手には槍を持ち、耳が尖った西洋の鬼だ。デビルは、人間界で言えば、最も下の位の、いわばチンピラだ。何の役にも立たない、どうでもいい存在だったのだ。
赤國幼年記11につづく
◆プロフィール
古本 聡(こもと さとし)
1957年生まれ。
脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。
早稲田大学商学部卒。
18~24歳の間、障害者運動に加わり、障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。
2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。