【「小さな声」を探し求める―「個」が躍動する組織のつくり方― 書評】第2回 S1グランプリ

画面越しの一人に届ける、私の火

「私のやり方は本当に正しいのだろうか」と心に浮かぶことがある。
自分なりに懸命に言葉を紡いでいるけれど、その声は果たして誰かに届いているのだろうか。

私は、この組織の様々な職種の求人原稿を書いている。
現場のアテンダントがどんな想いでクライアントと向き合っているのか、その「リアルな声」を求職者に届けなければならない。

しかし、私自身には介護現場の直接的な経験がない。

どれほど心を尽くして言葉を紡ごうとしても、本当の現場を知らない自分が書いた言葉で伝えられるだろうかという後ろ暗さと葛藤が、常に胸の奥に澱のように溜まり、いつでも引け目を感じていた。

いま私が向き合っている組織の原点には、一体どんな人がいて、それぞれどんな想いで働いているのだろう。

一人の人間の厚みは、到底一冊の本で掴めるものではない。
けれど、届けるべき人に確かな言葉を届けるために、その一端だけでも掴みたい。

そんなもどかしさの中で、自分のいる組織に対する視界をより拓くため、私は本書『「小さな声」を探し求める 「個」が躍動する組織のつくり方』を開いた。

本書を読み進める中で、強く浮かんでいたのが、個々がもつ「経験」や「原風景」、そしてその変化を自分の中へ受け止めていくことだった。

私にとっての原風景は、祖父母が住んでいた小さな島にある。
土っぽい細い道、日に数本だけ船を迎える港、焼杉の外壁の家、時間になると「カーン」と鳴る古い時計。

どこを歩いていても風がいつも海を運んで来て、私を静かに包み込んでくれるような場所だった。

人間関係の難しさや反抗期で行き場を失ったとき、私はそこへ逃げ込み、ひっそりと自分自身と向き合っていた。

正直、卵焼きは出汁がきいたやつの方が好きだけれど、古い床の木の香りが漂う台所で、祖母が作る甘い卵焼きは気づけばお皿からなくなっていた。

70歳になってもサンダル履きで登る山道で、祖父はひょいひょいと風のように先を行き、歩く道を示してくれていた。

あの島と二人の存在は、立ち止まってしまった私に静かに寄り添う、終わりのない凪のような場所だった。

久しぶりに祖母を訪ねると、あの台所の香りと同じ温もりの中で私を見つめ「誰かなあ、分からんわ~ふふ」と穏やかに笑い、私の名前はもうそこには無かった。
病床で「いついぬるんかなあ」と呟く祖父からは、かつて山道を颯爽と歩いていた頃の勢いや活気が、静かに失われているように見えた。

二人の変化を前に、確かに伝えたいことはあるはずなのに、何も示せなかった自分の未熟さを痛感し、幾度と思案に暮れた。

本著の中にもあったように、人が、そして組織が「変化することの脅威」に直面したとき、掲げられた理想やビジョンは時に「眩いかがり火」のように霞んで見え、足がすくんでしまうことがあるかもしれない。

しかし大切なのは、私たちの中にも「火」が存在し、その個々の「火」こそが、組織の大きな「かがり火」を支えているということだ。

高浜さんから声をかけられた時に、土屋が発足する話を聞いた時に、目指したい人に出会った時に、あるいは夢を追っていた時に、など一人ひとりの中に確かに「火」が灯っているように感じた。

突然燃え上がるように灯る人もいれば、たとえ蓋をしていても長年じっと絶やさず灯していた人もいる。

「個」が躍動する組織とは、決して一部の強いリーダーだけが引っ張る場所ではない。
組織としての「かがり火」を信じつつも、小さな火種を見逃さず、一人ひとりが持つ理想の形を認め合える場所のことだ。

どれだけ現場経験がない引け目に苛まれようと、画面の向こうの「個」に言葉を届けようとする私の火も、確かにここで燃えている。

祖父母が言葉にならない私の傷を受け止めてくれたように。
そして私が、画面越しの小さな声に必死で耳を澄ませてきたように。

「個」の存在を肯定し、その声を組織の駆動力へと変えていくプロセスは、私が求人執筆を通じて目指してきた姿勢にも通ずるものを感じた。

言葉を持たない小さな声に、どこまで耳を澄ませるか。
現場の熱量をどこまで掬い上げられるか。

自分の中にある「火」を決して絶やさず、自分の理想に一歩ずつ肉付けをしながら、これからも私は画面の向こうの「一人」と深くつながる言葉を紡いでいきたい。

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