『自信と驕りの違いについて』 / 長尾公子(取締役 社長室室長)

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

私はこの仕事ができます
私は歌が上手いです
私は人を見る目があります

相手にこんなことを言われた時、皆さんならどう感じますか?

好意的に「それは素晴らしい!」と思うこともあるだろうし、「えっ?この人何言っちゃってるのかな・・・」と 反対に警戒感を抱くこともあるかと思います。

「自信」と受け取るのか、単なる「驕り」と捉えるのか、その判断材料となるのは、それまでの自分と相手との関係性や態度、行動、言葉遣い、実績等から総合的に判断するのではないでしょうか。

冒頭のような言葉をいきなり言える人は、実際の世の中には、そういないと思います。特に日本人でそういうグイグイとアピールや売り込みをする人というのはなかなかいないでしょう。

そういう共通認識があればこそ逆説的に、ハッタリの巧い人が、一定の価値や、凄みを周囲に感じさせるのだと感じます。
「海外経験」や「知名度のある異業種経験」など、聞き手にとって世界が違えば違うほど、「ハッタリ」の威力は増すわけです。

また、オレオレ詐欺のような特殊詐欺がなかなか無くならないことを考えれば、冒頭に挙げた「自己をセールスアピールするような言動」に私たちの社会自体、免疫が低いのだろうとも考えられます。

例えば、「私はこの仕事ができます」と言われた場合、具体的な経歴や保有資格、人柄、または随時更新される事実や成果から、それが嘘ではなく確かなものだと判断される時に、「あの仕事をお任せしよう」と、個人的な自信は、周囲の信認を得て、実を結ぶのだと思います。
特殊詐欺はこのプロセスに強い「焦り」を加えることで関わる人物(詐欺被害者)から、冷静な判断能力を奪うか、冷静になる隙を与えないことによって成立するのではないでしょうか。

本来「自信」とは他者を惹きつける非常に魅力的なものだと思いますし、余裕がありおおらかな状態ということができると思います。また、そういった「自信」には、人は縋ったり頼りにしたくなるものです。

一方、「驕り」はどのようなものでしょうか。“肯定”の反対語は“否定”であるように、このテーマはまさに対局にあるように一見思うのですが、私は、「自信」の対極にあるものが「驕り」だとは考えていません。

気をつけないといつでも誰でも「驕り」の状態になり得ると考えています。まさに「自信」と「驕り」は、紙一重だと思うのです。
それは、根拠のない「自信」が過剰になった時に、それは「驕り」に化けるのではないかと考えています。

例えば、
・本当は知らないけれど知っていることにする、または知っているふりや、そう思い込む
・周囲との関係性から自分が偉いと思い込む
・ありがとうごめんなさいが言えない
・経験を軽視する
・プライドがやけに高い

それを正当化したり誤魔化したりして、いやいやこれは立派な自信だと言い張るときに「驕り」は生まれるのではないでしょうか。
ここに挙げた性質に対処することは、もう一歩引いた視点に立つような冷静さを自分自身が持てるような状態であればさほど問題は起きにくいのですが、冷静さを保てない状況、例えば「焦り」や「忙しさによる判断の放棄」が自分のどこかにあるとき、冷静さの中にある時はできる対処も、後回しになってしまい、問題を大きくすることがあるでしょう。

「人の話が聞けない、聞かない」ということは他者がその要素を持つ場合、「謙虚さや誠実さに欠けているな」と人は感じるものです。
「この人の話は聞かなくていい」「この人の話は聞かない」と表面には出さずとも心の中ですでにそう判断していれば心の中では「排除」が起こっています。
「忙しさ」がそこに拍車をかけることもあるでしょう。
やがて実際、心の中で「排除」した人がまた1人そしてまた1人とその人のもとを去ることを意味していると感じます。排除しようとする印象を「驕り」には感じます。

ここまで言うと、「驕り」ある人間だけが悪いように感じるかもしれませんが、私は「驕り」を生み出す原因として周囲の影響はかなりあると感じています。

例えば、本に書いてあることだけを重視して、経験を軽視する人がいるとします。
その人が、いかにももっともらしいことを言ったとき、その様子に疑う余地のないほど「自信」に満ちていたとき、聞くこちらが何だかそうだな、そうに違いないという気持ちに流されることもあるかもしれません。
さらに、その人が何か社会的に高い立場にいたらどうでしょう。また、経済的な決定権を持つ人物であったらどうでしょう。

適切に判断していかないと、知らず知らずのうちに「驕り」に加担しているということもあるかもしれません。
知らず知らずというのは嘘かもしれませんね。人間大体において「なんとなく怪しい」とか「ちょっとやばいんだろうけどまあ大丈夫でしょ」と高を括る場面は大小少なからず日々あるわけで、いろんな人のいろんな都合が少しずつ持った「まいっか」が誰かの大きな「驕り」を生むということがあるのだと思います。

驕りが一人の人間から勝手に生まれても別段社会に影響はそもそもありませんが、組織において、いざ驕りによって「増長した人」を批判することというのは、これもまた簡単というか「安易」なことです。
その罪状認否のとき「私も加担した」と正直に自分を顧みて反省することができるかどうかが、驕りを生む空気を組織に居座らせるか、それとも本当に風通しをより良くできるかの分岐点だと私は思います。

「驕り」はいとも簡単に生まれる

私達はよほど意識していないと簡単に、弱さはいつでもどこでも誰にでも
忍び込んでくるものだと思います。

 

◆プロフィール
長尾 公子(ながお きみこ)
1983年、新潟県生まれ

法政大学経営学部卒。

美術品のオークション会社勤務後、福祉業界へ。通所介護施設の所長や埼玉の訪問介護エリアマネージャーを経験し、2017年、出産を機にバックオフィス部門へ。現在は3歳と0歳の子育て中。

 

関連記事

TOP