私と母〜教育虐待に思う② / 牧之瀬雄亮

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

大体その焦りは母自身のものであって、私は平然と鏡文字を書いて満足していたのだから、困ったものである。

私のテストの点数や他者評価、表彰など、他者の評価を介した上で褒められ叱られることはあっても、表現や思考について彼女自身の個人的な意見や批評を聞いた記憶がない。74点で叱られ、96点で喜んでいた。「ヨシ!」とか言っていたのだ。文章で答える問題について「どういうふうに考えてこう答えたか」などとは聞かれた記憶がない。

私が高校で自宅謹慎になった折、「ルールについて」という題で反省文を書くことを言い渡され、書いたのは「ルールを守ることばかり考えてる奴はマゾヒストなんじゃないか」という内容だった。

母の検閲を通った後、同じ高校に通う姉が担当教師に届け、担当教師が姉に小言を言い、それを姉が母に伝え、それを聞いて母は怒り嘆き、「あんなに立派な〇〇先生がお前に対してがっかりなさっておられる」などと言って泣いていた。

私はそのとき自宅の壁がいやに薄く感じられた。

当時から父は体調を崩して入退院を繰り返すわ、父親の兄弟がヤミ金に手を出し父が降格の憂き目に遭うなど、地方にしてはそれなりの収入の額面があったと思うが、とにかく暗い家だった。

ちなみに謹慎がいざ解けるという日、ナチュラルボーンナイスババアたる父方の祖母は、いつもケタケタ笑う顔をしわくちゃにして、「もう悪いことしちゃあいけんよ」と至極真っ当な、今でも参考にと言うか、TPOを全くすっ飛ばしていわせてもらえば「それしかねえよな!」と言いたくなる言葉を私に寄せた。さすがである。

兎にも角にもこういったわけで、文章を書くということはするものの、私の核のアナキスト的性質自体が母のような「いい子になりたい精神」と合致しない。

「いい子」は世間が狭く、検討・参考にする時間軸も短い。漂薄、漂い薄い、漂薄罪である。時代は移ろうのにも関わらずだ。

「いい子」には一定社会性があるし、実際社会を回している大多数の人々は「いい子」なのだと思う。しかし我が国の年間自殺者は一向に減る気配はなく、Twitterではティーンエイジャーが「毒を吐く」ための「裏垢(顔を合わせる人には秘密にしているアカウント)」を持っている。

ガミガミ言われながら書いた作文のタイトルは「新しいメガネ」という題だった。
小一からメガネというだけでも馬鹿にされ、コンプレックスだったのに、そこを上塗りさせることをどうとも思わない精神、かつ、子供に頑張らせて親である自分が褒められたいという、困ったひとである。

尾木ママにチクってやりたくなる。

逆に尾木ママに諭されそうでもあるが。

実は大学に通わなくなったのも、母の「ヨシ!」を聴きたくないという気持ちが多分にあったのは、お察しの通りである。電話口で言われた通りに大学にきちんと通い、幾らか給料が上乗せされたりしたところで、私はそんな金は端金に見える。

そういう改造を母は私に図らずも施した。母よ、あなたが他人から褒めてもらうために我々は存在してるんじゃないんだよ。これは私の教育である。

大卒の給料との差額は、私の魂の遊興費である。

こう書いてきたが、母を恨んで恨んで心が休まらないという時期は過ぎている。今の私にとって母の影響というものは良くも悪くも「存在」ということに過ぎない。金網を取り込んで伸びた樹がどうも味わい深いようなものかもしれない。

自分の子供と接するとき、私自身母の振る舞いに似た接し方をしようとすることがある。その時頭の中に一瞬熱が篭り、その振る舞いをしようとするのを万力のイメージが押し留める。

親に虐待された人物は自分の子供に対して、また虐待を行うのは、「親のあり方」を自分の親からしか学べないからだという。この傾向、つまり統計的確からしさから私は何がなんでも逸脱する。

自分の子供は自分と違う価値観で生きる。親の価値観は提案するだけだ。強制と自発は全く違う。呼水は水源の近くで行わないと意味がない。土木も改変する土地そのものの地形や地勢をどれだけ深く見ることが出来るかにかかる。

「深く見る」というと、特殊な能力のように思えるが、実際は対象に関係する諸情報をどれだけ多く受け取り、それらを自分の価値観で取捨選択しないで見るということである。子供とそうやって暮らしていくつもりである。

社会問題を考えることと、自分の記憶や自分に内在化した嫌な親族の影響を眺めることは方向性が違うように思われる方も多いかもしれない。

しかし自分も社会の一員であること、自己の中に他者(即ち社会)があること、これらを考えれば、自分自身が不用意に、不寛容や道徳的犯罪を行わないようにすること、狭隘なエゴイズムに陥らないようにすることは、社会をより良くすることと同義なのだ。

ここでも主客の同一が起こるではないか。

母は私の人生に、私の嫌いな価値観を体現する具体として登場した。ある時代や、歴史のエッセンスとしてである。それを分析することは私にとって嫌な感情を呼び起こすことでもあるが、そうやってしか剥ぎ落とせない呪いでもある。

最近、個というものは殆どないのではないかという風に感じることがある。間断なき変調の波の中で、私たちは自分で考えていると思っているが、殆ど社会に起きる波に乗るか呑まれるかして、乗れば喜び、呑まれれば恨み言を言うと言うことなのではないか。

自己の中身を見ても、自分の得た知見は外から定義可能な何かであるし、そう規定したがる。それが「言語」のある側面なのではないか。

今回の文章は以前お世話になった古谷経衡氏が、『毒親と絶縁する』という書籍を上梓され、それも契機になって書きました。機会があれば古谷氏の著作も是非ご一読ください。漫画がいいという方には押見修造さんの『血の轍』をお勧めします。

昨今、教育虐待という言葉も出てきました。私のように自分が育った家庭が嫌だったという方も時折見かけます。そういった方々が「はっ」と思ったり、親御さんと適当な距離を取るきっかけになったり、「あれは(これは)呪いだったのか」と気づくきっかけになればと願っています。解けますよ。その呪い。

罵詈雑言、乱文、読むに耐えない部分もあったかとは思いますが、この度はどうかご容赦のほど。

しかしこのステゴロ精神、誰に似たのか。

 

◆プロフィール
牧之瀬雄亮(まきのせゆうすけ)
1981年、鹿児島生まれ

宇都宮大学八年満期中退 20+?歳まで生きた猫又と、風を呼ぶと言って不思議な声を上げていた祖母に薫陶を受け育つ 綺麗寂、幽玄、自然農、主客合一、活元という感覚に惹かれる。思考漫歩家 福祉は人間の本来的行為であり、「しない」ことは矛盾であると考えている。

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