『甲府の思い出』 / わたしの

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

今回のコラムは、90年代前半の甲府(山梨県)のことを知っている方には情景を目に浮かべて辛うじて読んでいただけるかもしれません。とにかく「ローカルな」「狭い」内容なのです。

気付いたら甲府の町の百貨店や商店街のことばかりが中心の内容になってしまいました。

1992年―甲府。当時、私は中学生でした。電車でよく遊びに行きました。

1987年に国鉄が解体されてJRになってからまだ10年と経っていない時代のことです。その頃は国鉄だろうがJRだろうが自分にとってはあまり関係がなく、よく理解もできていないまま利用していました。

一人で電車に乗るようになり、隣の「竜王駅」から一駅移動するだけですが臆病者だった自分にとっては冒険でした。

繰り返すうちにだんだんと慣れてきて、慣れることはよいことだと思っていましたが、電車に乗ることが当たり前の今となっては当時のドキドキしていた気持ちは二度と戻ってこないと思うと掛け替えのないものだったんだと感じます。

何の目的で甲府を訪れたのか、思い出してみるとひとつは「映画」でした。あの頃見たのは『紅の豚』『スニーカーズ』『パトリオット・ゲーム』『リバー・ランズ・スルー・イット』『マルコムX』………などなど。

もうひとつの目的は単純に買い物でした。買い物といっても、お小遣いもそんなに持っていなかったので世界的に有名な画家の絵画のポストカードを買うことくらいが関の山のかわいいものでした。

例えば、ピカソやゴッホやマティスなど。

「シャガール」に出会ったのもその頃です。その時に「時々、人は空を飛ぶ」ことを教えてもらいました。

やがて吉祥寺の地下の狭い舞台の上でスーツ姿の舞踏家がジャケットを脱ぎ、シャツを脱ぎ、ズボンを脱ぎ捨て悠々と大空を飛んでいる場面も目撃しましたし、となりを歩く美しい女の子が秋の夕暮れの光の金色に包まれて池袋の空に舞い上がったのも見ました。そんなこともあり得ると教えてくれたのは、きっと中学生の時に出会った「シャガール」だったように思います。

後に、洋服も買うようになりますが「昭和雑貨店」「飛鳥」岡島の裏の「FILM」、舞鶴城の裏の「ゴールデン・ゲート」西武デパートの無印良品などなどを回っていました(知っている人がいたら嬉しい…)。

甲府駅のプラットホームには「みたけそば」という立ち食いそば屋がありました。水を飲むコップがワンカップの空き瓶を再利用したものだったことをよく覚えてます(笑)。

このお店も駅の改修とともになくなり、その変わりに改札階に東京にもよくある画一化された立ち食いそば屋ができました。
しかし、店が変わっても昔から「みたけそば」で働いていた女性が変わらずそこで働いていたことがなぜだか無性に嬉しかったことを記憶しています。

甲府駅の駅ビルは現在CELEO(セレオ)甲府という名前に変わっていますが元々は「エクラン」と呼ばれていました。

このコラムを書くにあたって少し調べたところによると「エクラン」は1985年(昭和60年)に開業。1986年に開催された「かいじ国体」に合わせて木造平屋建てだった甲府の駅舎を橋上化しその際に商業施設の入る駅ビルとして誕生したと書かれています。

私はかつての木造の甲府駅の記憶はありませんでした。しかし、もっと幼い頃に祖父母に連れられて行ったことがあるはずなので、その木造平屋建てだった甲府駅を見ているはずだし、この足で踏んでいるはずなのです。残念ながら覚えていません。

そんな「エクラン」も2015年に改装され、名称もセレオ甲府に変更されました。

ちなみに「エクラン」を出て左手には、1989年(平成元年)にできたばかりの山交百貨店がありました。

開業当時は正面入口と二階をつなぐ左右から曲がって昇降するスパイラルエスカレーターが話題になりました。

直線のエスカレーターではなくただ弧を描いているというだけですが、オープン当初は県内に激震が走ったというのですから、その当時の人々の純朴さがかわいらしいものです。

このスパイラルエスカレーターはのちにデパートが経営不振に陥ると二階から降りる方は運転を止められてしまいました。そして、正面に設置された時計台とともに撤去されてしまう運命にあるのです。

そして、山交百貨店は2019年に閉店しました。

甲府駅から南へ伸びる平和通り沿いに商店街があり、当時はアーケード商店街でした。
現在はアーケードは取り払われて、道も広くきれいに整備されています。

10年前、2010年頃、甲府に遊びに行くとまったく人がいないことに驚きました。いたとしても子どもと高齢者だけなのです。その光景は異様でした。

駅前はシャッターが閉まっているお店が増えていました。商店街も例外ではなく、かつての賑やかさを失っていました。

甲府の中心地の渋滞緩和のために問屋や市場の機能を郊外へ移していった政策の影響や、90年代以降のバブルの崩壊による不景気、さらに郊外に大型ショッピングモールが乱立し、そこに人が吸いとられてしまったことなど様々な要因が重なり、いわゆるドーナツ化現象のもっともきれいな見本みたいになっていました。

先に挙げた山交百貨店もこの後紹介する西武デパートも経営不振の末閉店に追い込まれたのは「慢性的な駐車場不足」が原因の一つだとも言われています。

駅から少し離れた場所にある岡島百貨店は少ないながら駐車場の確保ができ2020年の現在でも辛うじて生き残っています。

しかし、先日訪れた際も空いている駐車場を探して車で周辺を3周したことがありました。

やはり車社会では中心地の百貨店や商店街は不利です。

廃れていくことに危機感を感じた商店街の方たちはアーケードを撤去することで「古さ」から脱し、新たな町へ生まれ変わりたいと願ったのかもしれません。そして人々がもう一度戻って来てくれることを夢見たのではないでしょうか。

「アーケード」は「古さ」の象徴としてありました。

92年の甲府は栄華にかげりを見せはじめていたとはいえ、まだ活気と勢いがあったように記憶しています。

確かにアーケードがなくなった現在の通りは広くなってすっきりとした印象がありますが、過去を知っている私には少しさみしい。

二度と戻ってこない愛しい甲府の町の情景です。

『♪甲府の駅を降りたなら

西武の角をちょいと曲がり

オリオン通りを通りすぎ

春日アベニューまっしぐら』

山梨県民のある世代にとっては有名な内藤セイビドー眼鏡店のローカルCMでも歌われたように、甲府にも西武デパートがあり、その西武デパートのところでアーケードが終わっていました。

そしてその西武デパート(ちょうど角にガラス張りのエレベーターがありました!)を左に曲がっていくと県内で唯一のスクランブル交差点があり、さらに進むとオリオン通り、やがて岡島百貨店、かすがも~る、春日アベニュー…甲府銀座…裏春日…などの繁華街へと通じていくのでした。

ちなみに西武デパートは1998年に閉店し、取り壊されてしまったのでもうあのガラス張りのエレベーターにも乗れません。

交差点を渡りオリオン通りまでの間にCD屋があった気がします。そこで「THE BLUE HEARTS」のアルバムや「LINDBERG」のシングル(縦に細長い形をしたタイプ)を何枚か購入した記憶があります。「エアロスミス」と「レニー・クラビッツ」のアルバムもその頃買ったはずです。

今でも営業されている万年筆屋さんを右に曲がってオリオン通りに入って行きます。

オリオン通りの中頃を左手に入って行くと味噌ラーメンの「えぞ」、右手にはパセオというショッピングセンターがありました。先に挙げた絵画のポストカードを買うことができたお店もこのパセオの3階か4階にありました。

地下にはサイゼリアがあって、そこもお気に入りの場所でした(現在のサイゼリアとは料理の質が全然違っていました。もう一度あの頃のサイゼリアに戻ってほしいと切に願っているのは私だけでしょうか)。

パセオは2007年に閉業し、現在跡地はココリという商業施設が建ちました。

オリオン通りは現在もアーケードになっています。

───逆光。

アーケードに透ける日差しと、五色の七夕飾りがけだるく揺れる夏の午後の甲府の町。盆地の底はうだるような暑さでした。

人々や車が賑やかに行き交っていました。

かつて祖母が「軍人さんだよ」とこっそり教えてくれた方が通りのすみっこにしゃがんでハモニカを吹いていました。甲府の町の情景がそのハモニカの音色とともに懐かしく思い出されます。

愛しい甲府の情景。

今でも大好きな町です。

 

◆プロフィール
わたしの╱watashino
1979年、山梨県生まれ。

◎わたしの曲
https://note.com/wata_shino/n/nc337c5ce7530

◎わたしのコラム
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