土屋の挑戦 インクルーシブな社会を求めて⑮ / 高浜敏之

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

15 貧困当事者を生きる

35の春、底つき経験をした。通院した病院では「過量飲酒によるアルコール依存」と診断を受けた。10代後半からスタートしたアルコールという薬物とのおつきあいにピリオドを打つ決断を迫られた。

不思議なことにもはや迷いはなかった。もはや心も体もどうにもならなくなっていた。先祖代々の大酒のみという自己解釈が、依存症という病者に変更を迫られた。正直、少しほっとした。予想以上に険しかった断酒への道が始まった。アディクションに頼らざるを得ない生き方のゆがみを是正していくリハビリテーションの日々がスタートした。

もはや仕事を継続することはできなかった。あっさりと公的扶助を受けることを選んだ。支援者は支援される側にまわった。障害者運動を共にする仲間の多くが生活保護を受給していた。私もその仲間入りをした。おかしな話だが、市民権を得たような気分にすらなった。

私が参加しているコミュニティーでは就労自立している人のほうがマイナリティーだった。不思議な話で、働いて収入を得ているということに逆差別すら感じることもあった。これで生活保護受給者の仲間入りをすることができた。やっと自分も仲間たちとの壁が取り払われる。そんな風にすら感じた。

全てを失った。が、すでに持っているものもほとんどなかったので、喪失感はほとんどなかった。むしろ身軽さすら感じた。軽装で、リハビリに集中する日々が始まった。

これを契機に障害者運動とも少し距離を取り始めた。外の矛盾や抑圧や差別を解消するために尽力してきたが、その時の自分にはその力の余剰は失われていた。外の傷を凝視してきた眼差しを、内なる傷に向けた。しばし社会から退却し、自分自身を見つめる時間をいただいた。

毎日のように自助グループに通い、自身の過去と現在と未来について語った。仲間が語ることばに耳を傾けた。他者という鏡に自分自身の姿を発見した。自分自身の心の傷と、思考のゆがみと、行動のパターンを言葉にしていった。そんな日々が、気づいたら2年余りになろうとしていた。

生活保護を受けながら、社会的自立に向けて、リハビリテーションの日々を送った。社会の周縁を生きるマイナリティーの方々の支援に邁進した自分が、社会のどん底にたどり着いてしまった。人によっては絶望的な気分になる状況かもしれないが、私にとってはそうではなかった。

障害者運動に本気で身を投じるなかで、持つものと持たざるものの位置関係が知らず知らずのうちに逆転していた。図らずも思考のリフレーミングが起きていた。自分の置かれた状況をポジティブに解釈する座標軸が内面化されていた。

もちろん嫌なこともいろいろあった。心無い言葉を浴びせられることもたびたびあった。自分自身の中に内面化されたスティグマ、すなわち公的扶助の対象であることへの恥の意識がなかったかといえば、それは嘘になる。

通院したとき、お金を払うことなく病院を後にするときには、周囲の目が気になることももちろんあった。恥ずかしいなあ、早く就労自立して、病院で堂々と自己負担分を支払えるようになりたいなあ、そんな風に思った。

しかし、アルコールなどを断ち、アルコールなどに頼らざるをえない自分の弱さを見つめ、新しい生き方に向け歩み始めた日々には、静寂と満ち足りた充実が思い起こされる。そのリトリートの期間は、人生で最も美しさを甘受できた季節かもしれない。光や風や悲しみや苛立ちや不安や歓喜を何のためらいもなく感じることのできる日々だった。

自分自身の過ちや屈折を素直に認め、反省し、更新していくことのできる、かけがえのないスピリチュアルな時間が流れていた。あの時間がなければいまの自分はないと断言できる。

持たざる者を生きた時代は、他者との交流の質も異なるものがあった。その頃に出会った方々との交流には、取引や駆け引きの匂いがなかった。他者と出会う喜びを純粋に味わうことができたように思う。もちろんその生活はずっとは続かないし、そうであるべきではないとも思う。生活保護のケースワーカーの方のサポートもあり、約2年半で就労自立をすることができた。

その後障害者運動に回帰することはなく、認知症対応型グループホームでの介助職員としてお仕事させていただいた。リハビリの一環として非常勤として2年くらいお仕事をさせていただき、その後正社員として登用していただいた。まさか自分がそんなところにたどり着けるとは思わなかった。

正社員雇用契約をさせていただいた帰り道に駅前で勧誘活動をしていた医療系NGOへの会員に勢いですぐなった。自分はやっと寄付できるところまでたどり着いた、と誇らしさを感じた。約10年前の話だが、いまだに毎月決まった日に会費の3000円が銀行口座から引き落とされている。その記録を目にするたびに、当時の静かなる喜びが思い出される。

その後介護系ベンチャー企業の立ち上げに参加し、デイサービスの管理者、新規事業の立ち上げ、事業統括、新規エリア開発、社員教育、評価制度の策定、組織マネジメント全般、業界団体の立ち上げ、などなどありとあらゆることをさせていただいた。株式会社土屋を立ち上げ、いまでは従業員が800名を超える企業の代表をさせていただいている。

経営者になってからも、金融機関の方々との話し合いや様々なコンサルティング会社の方々との交流などなど、新しい経験の目白押しだ。現場を離れた今となっては、ちょっとでも現場を支えてくれる仲間たちやサービスクライアントの一助となれればと全力投入させていただいている。一言でいうと、非常に充実している。

もしかしたら、元生活保護受給者の中では社会的に成功しているほうかもしれない。幸せな家庭にも恵まれ、仕事にもやりがいを感じることができている。しかし、かつて公的な支援を受けながらリハビリに専心したころのような静謐な時間は、仕事に忙殺される昨今においてはあまり発見できない。

それなりに大きくなった組織を運営しているうえでは配慮しなければならない要素があまりにも多くて、かつてのような透明な視点で自分や他者や社会を見つめることも難しくなってきたことを実感する。正直、内的な幸福感という意味では、巨大組織の代表者を生きるいまと、貧困当事者を生きる10数年前と、甲乙つけがたいものすらある。

もちろんかつてのようになりたい、過去に回帰したい、という思いは皆無である。いまはいまでとても満足している。ただ、喪失を絶望と短絡的に結びつける価値判断は、かつての私にはなかったし、今後もそうでありたいと思う。

いろんなものを失った、あるいは捨て去った日々は、とても美しかった。リハビリの成果もあり、アルコールをはじめとしたもろもろのアディクションへの囚われからも解放され、クリーンな日々を送らせていただいている。かつて泥沼を泳いでいた自分が、清涼な空気を吸い込みながら歩くことができている。

しかし、あの真っ白で透明で静かな時間の記憶を忘れることなく、今後も生きていきたいと思う。

貧困当事者を生きた日々は、私にとってはかけがえのない時間だった。

 

◆プロフィール
高浜 敏之(たかはま としゆき)
株式会社土屋 代表取締役 兼CEO最高経営責任者

慶応義塾大学文学部哲学科卒 美学美術史学専攻。

大学卒業後、介護福祉社会運動の世界へ。自立障害者の介助者、障害者運動、ホームレス支援活動を経て、介護系ベンチャー企業の立ち上げに参加。デイサービスの管理者、事業統括、新規事業の企画立案、エリア開発などを経験。

2020年8月に株式会社土屋を起業。代表取締役CEOに就任。趣味はボクシング、文学、アート、海辺を散策。

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