正しさを正視する / 牧之瀬雄亮

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

十二月の末に私の住む東京では、台風を思わせるような強烈な風が吹き荒れて、明けた2021年の元旦には全く澄み渡った空に、ほとんど狂気めくほどに眩しい太陽が照っておりました。

2020年を振り返ると、私たちを取り巻く情報が、幾層にも入り乱れて重なり、ずっと混乱していたか、ダムの放水の怒涛のように、或いはただ騒がしかったという一年だったように思われます。

新型コロナウイルスについての情報一つとっても、免疫の観点から言えば消毒がこれほど過剰になれば、我々の体に元来備わる自己免疫を破壊するのは自明のことだし、不安に駆られて自粛警察なんていう他責的な人間の行動が出るということは、人類をひとつの身体に例えたとき、まさに自己免疫疾患的状況と言えるのではないかと思います。

今の40代〜50代を境に、インターネットで調べ物ができるかどうかという世代間格差があるとのこと。

無論、その年代より若い人たちは、思考がおおよそ固まるとされる35歳前後より前にインターネットに触れる機会があった、もしくは生まれた時から既にあるという状態で、インフラとしてあって当然の物として利用していることからくる、自然なことだと思います。

若年層壮年層の「インターネットがあって当たり前世代」と「インターネット面白いね世代」にとって、既存の大手マスコミは特に価値を持ちません。私の子供も夜寝る直前に、好きなアニメの任意の回を指定して見せろとせがみます。

私が子供の頃は、好きなアニメを観ようとしても曜日と時間を待たなければならないし、鹿児島の高低差の激しい地形は簡単にテレビ電波を遮るので、ほぼ砂嵐で辛うじて話の筋だけわかるという受信環境で観たりしていたのです。
これを我が子に言っても「またとうちゃんは馬鹿な嘘を言っている」と思われるのが関の山ではないかと思うほど、現在のメディア環境は融通が効いています。

話がそれましたが、インターネット、掲示板、SNSの登場によって、昔は片田舎で「あれ?変じゃないか?」と芽生えた疑問を親や学友等々に聞いてみても「熱でもあるんじゃないか」「宿題やったのか」と言われるぐらいでかき消されてしまう観点も、インターネットを介してこれを共有したり、蛇の道は蛇の先輩が現れて解答を得られたり、そういう時代なんですよね。

私も変な音楽や芸術についての知識や音源そのもの等を、寝る間を惜しんで閲覧しまくった20代を過ごしました。また、師である西部邁との出会いもSNSでのやりとりがきっかけでした(「弟子と思ったことはない!」と草葉の陰からニュッと顔を出されそうだが)。

SNSは犯罪の温床になると非難されることも多。事実座間の凄惨な事件もTwitterを介して引き起こされており、私のInstagramのアカウントも海外の大麻ディーラーからフォローされています 笑

「知りたい」という根源的な欲求にインターネットは答えてくれる。
もしも調べたいのであれば。

インターネットに限ったことでなく、「事実」というのは、見る側の感情や趣味趣向と関わりなく、受け入れたいか否かに関わらず存在するのです。

日付、量、数値、現象、誰かの行動…

それを見るとき自分に都合のいいように脳は補足してそれらの情報を受け取るのです。また、都合のいいように捨象(切り捨て)もします。

「知ること」は誤解と同義である

と言った人がありました。

「え〜!?どうせ誤解だったら知らなくていいや」ということを推奨するようにも聞こえるこの言葉、僭越ながら私が少し改造いたしますと

「知ること」は誤解を生むけれど、乱れ打ちしている間になんとなくボヤッと確からしさが見えてくることがあるよ。

こう改造してみました。また

「誤解の繰り返ししか人間にはできないんだよ」

とも言えるでしょう。

失敗を自他によらず観て対処する、それだけで本当はいいはずです。感情、乗りこなしましょう。損得、乗りこなしましょう。

テレビでもお馴染みの武田邦彦先生は、

「科学を自分の道として良かったことは、私は間違っているということを受け入れることに抵抗がなくなったことです」

と仰います。

事象の海に私たちはいます。大事なのは事実と自分をよく見ることです。そうすると何か新しいものが見えてきます。

 

◆プロフィール
牧之瀬 雄亮(まきのせ ゆうすけ)
1981年、鹿児島生まれ

宇都宮大学八年満期中退 20+?歳まで生きた猫又と、風を呼ぶと言って不思議な声を上げていた祖母に薫陶を受け育つ 綺麗寂、幽玄、自然農、主客合一、活元という感覚に惹かれる。思考漫歩家 福祉は人間の本来的行為であり、「しない」ことは矛盾であると考えている。

関連記事

TOP