赤國幼年記⑪ / 古本聡

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

階によって決まっていた入所児の「用途」と「運命」

以前、施設の建物は、半地下階を含めると4階建てだった、と書いたが、正確に言えば3階と屋根裏との間に中4階が建物の一方の端に設けられていた。つまりは5階建て、ということになる。半地下階には広い入浴室、職員用更衣室、給食調理室が建物真ん中あたりに配置されていて、建物の右端には手術室と処置室、ギブス室があった。

一方、建物左端奥は、白く塗られた鉄製の分厚い防火扉で仕切られていて、その向こう側は遺体安置室だった。入所児が最も恐れた場所だ。

入所児の居住部屋が配置されていたのは2階、3階、中4階だった。2階と3階の間取りは大体同じで、それぞれに25床の大部屋が4つと10床の小さめの部屋が6つ設けられていて、男子と女子の数は各階ともおおよそ半分ずつ。中4階は、10床程度の部屋が2つあり、それぞれ男子部屋、女子部屋だった。

私は、最初の半年間、3階の小部屋に居て、それ以降は同じ階の大部屋に移された。小部屋は年齢が6~7歳の未就学児を収容するためのもので、男女混居だった。

どの階に入居させられるかは、それぞれの入所児の「用途」によって決まっていた。そう、まさに「用途」別に、だった。もちろん、このことについて私が知ったのは入所してから1年以上経った頃なのだが、簡単に言えば、2階の子供たちは実験用。

つまり、その子たちは、開発途中段階の薬品や治療法の効果と安全性を確認するために収容されていたのだ。そして、有効性と安全性がある程度確認された薬や治療法は、次に3階の子供たちに実用されていた、ということだ。

さらに、中4階の住人たちは言わば「成功例集団」だった。すなわち、身体の形状と機能が「正常な人間」のそれに近づき、精神的にも肉体的にも、それに学力的にも、あの収容施設を出た後の進学や就職に耐え得ると保証された子たちだ。

主に17、18歳のお兄さん、お姉さんたちで、皆美男美女だったのが印象に残っている。彼らは皆、3階に居た時に施された最新療法の実用における成功例だったのだ。

言い方を変えれば、その子たちは、様々な薬の副作用、各種治療法の苦しみ、重い手術の痛みに耐え、そして時折起こった色々な感染症の蔓延も生き抜いたヒーローであり、ある意味では偉人で、その上、優れた学力を持ち続けることができた障害児の中の優等生だったということだ。

ソ連という国では、いや、今のロシアでもそうなのだが、偉業を成し遂げたヒーローは持て囃され、特別待遇を受けられた。

例えば、戦争中に武勲を多く立てた人や、社会主義経済体制特有の5ヵ年計画で予定よりも早いペースでノルマ達成を果たした人は、政府から勲章を授与され戦争英雄または労働英雄と呼ばれていたが、この人たちは、食料品を求めて長蛇の行列に並ばずとも店に入れたし、映画館や劇場といった娯楽施設にも、英雄証(はがき大の証書)か胸にぶら下げた勲章を見せればフリーパスで入れたのだ。

そんな風習が定着していた社会にあって、あの障害児施設という本当に特殊で狭い世界でも状況は同じだった。

中4階の住人たちもいうなればヒーローであり、そして偉人たちとして、それに相応しい扱いを受けていたのだろう。優れた社会主義の医療と教育が成し遂げた素晴らしい成果、という訳だ。施設側としても、胸を張って社会に送り出せる、言わばエリートたちなのだから、ほかの子たちとは扱いが違っても当然だという考えだったようだ。

そして、どの入所児もその点については納得し、いつかは中4階に入居できることを夢見ていた。

中4階にはサロンと呼ばれていた、大きなアーチ形の窓のある広く明るい食堂兼娯楽室が備わっていた。

2階と3階の入所児が居室で共用テーブル、または自分のベッドで食事を摂っていたのに対して、ヒーローたちはそのサロンで二人~四人掛けテーブルを使っていた。その光景はあたかも、西欧の都市でよく見られるオープンカフェのように優雅でお洒落だった。

何よりも服装が違っていた。彼らは、普通の家庭の子供のような整った服を着て、女子はスカートさえ履いていた。一方、2階、3階の私たち「一般児」は、前にも書いたとおり、男子も女子も色褪せて擦り切れたボロボロのパジャマしか着させてはもらえなかった。

さらに、3階の入所児が中4階を訪れるのは、厳禁だった。「汚いから」、というのが理由だった。3階から中4階までの10段ほどの階段が、子供たちの間に壁のように立ちはだかっていたのだ。

>赤國幼年記12につづく

 

◆プロフィール
古本 聡(こもと さとし)
1957年生まれ。

脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。

早稲田大学商学部卒。
18~24歳の間、障害者運動に加わり、障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。

2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。

関連記事

TOP