私の家族① / 浅野史郎

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

先日、仙台に住む長姉敞子から、わが浅野家の家系図が送られてきた。敞子姉の近所に住む佐々木恵美子さんが作成したものである。恵美子さんは私の父方の祖父寅之助の弟の孫だから、遠い親戚になる。彼女はこういうことが好きな人らしいが、それにしても大変な労力である。おかげで、浅野家の家系図に初めてお目にかかることができた。

家系図では、私から数えて5代前の浅野玄益まで遡っている。江戸時代の文政年間の人である。玄益を初代とすると、私は6代目。浅野玄益は医者であり、名前を刻んだ石碑が地元に建っている。玄益が例外で、2代目から5代目まではすべて農家である。

4代目である祖父より上の世代の人は、見たことも聞いたこともない。一体どんな人たちなんだろうか、見当もつかない。それでも、私とは確実に血がつながっているのだから「身内」である。家系図を眺めていると、いろいろな感慨が湧いてくる。

家系図にある「先祖」のことについてとても詳しいのが、従兄弟の益雄(89歳)。先日、電話で話した時に、いろいろ教えてくれた。記憶力は衰えていない。益雄さんがいなくなったら、誰が浅野家の歴史を語ってくれるのだろうか。こんな名もない浅野家の歴史など、こうやって埋もれていくのに違いない。

私は、浅野家が住み続けている宮城県登米郡北方村に、5歳まで住んでいた。その後も、年に1、2回は里帰りをしていたので、浅野家の面々とは顔なじみである。そんな人達も、今やほとんど世を去ってしまっている。

祖父浅野寅之助、祖母みさよはいとこ同士。寅之助は私が8歳の時に亡くなったので、あまり覚えていない。農家の家督としてどっしりした感じの人という印象だけが残る。祖母のみさよの思い出としては、お蚕さんを育てていたこと。繭になる前の青虫が蠢いているのが不気味に思えた。ここまでは、父の実家の話。次は、母の実家の話。

母の実家の田中家は仙台市内である。古くからの商家で、北三番丁百番地でお店(書店と薬局)を営んでいた。木町通小学校と我が家との中間に位置しており、学校帰りに寄り道することが多かった。田中書店で立ち読みならぬ坐り読みの常連であった。

なにしろ家から近い。叔父・叔母、祖父・祖母にいとこ3人。しょっちゅう遊びに行っていたので、実家の家族と親しくなる。いとこの信彦、章子、静子、それに敞子姉より一歳上の叔父の頌は、別居しているきょうだいのようなものだった。

祖父田中文蔵はお酒好きだった。私の記憶にあるおじいちゃんはいつも酔っ払っていた。だけど、だから、常にニコニコ愉快な人という印象がある。いつも一緒にいる家族からは疎まれていたようだが、たまに会う私にとっては「愉快なおじいちゃん」であった。

祖母とみじは一家の中心。仙台人とはこういう人かと、幼い私はそう思っていた。話す言葉も生粋の仙台言葉。「さようなら」のことを「おみょうにぢ(お明日)」というのが、幼い私の耳に残っている。仙台言葉とはいえないが、レコードのことを種板と言っていたのも思い出す。

姉の敞子はとみじさんから身の上話を聞いている。とみじさんを産んで1ヶ月して母親は東京に出奔。とみじさんは養子に出される。長じて実母に会いにいったのに冷たく突き放された。あのおばあちゃんにも、そんなつらい歴史があったんだ。

とみじさんが亡くなったのは、心臓の具合が悪くなって入院したY病院。病状は重いものではなかった。入院初日、就寝前におむつをつけられた。それがいやでいやでたまらなかったらしい。おむつ装着と死亡に因果関係があるかどうかははっきりしていない。とみじさんは翌朝亡くなった。

◆プロフィール
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし

「明日の障害福祉のために」
大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。

2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」。

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