もしも病気が治ったら / 牧之瀬雄亮

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

私が今は距離をおいた重度訪問介護で、ある方のお宅にお邪魔している夜、当時は明けても暮れてものべつアルコールに体を浸していた私と話すとその方も、自然お酒の話になるようだった。

伺えば旅好きで、家族で出掛けては地方の温泉に浸かり、地元の食べ物を味わっていたとのこと。元来陽気な質の方で、どこの馬の骨ともつかない私や、次々にやってくる訪問者たちを、少なくとも嫌味なく、迎えてくださる方で、新顔が独り立ちするまで私が随行してお邪魔した時などは、あれこれとお話を交わしてくださり、緊張からか遠慮がちな新顔氏にも話を振ってくださったり、今思えばああいう方を現人神とお呼びして差し支えなく思う。本当の神様ならば、そのぐらいのことは不遜になるまいとも思う。

「ホッホッホ」と笑ったあとで、ぽつりと

「俺もう一度酒が飲めたら泣いちゃうかもな」

とこぼされた。

私は即座に「ちょっと今飲んでみましょうよ!」と返したが、「うん、調子いいときね」とお答えになった。

自分の目の前でめでたい事件が起こるのは生きている感覚が強く刺激される。
私はお酒を飲んで陽気に微笑むあの方を見たかったが、まだその知らせはない。
どこかの誰かと、または誰気兼ねないご家族と、そんな機会が訪れていたらと思うばかりである。

私はいざお宅にお邪魔した時は、出来るだけ要望に応えたいと思って働いていた。

ひとつ私の感情を後ろに隠していたのだがそれは、

「この人の病気、今日治って欲しいな」

と思っていたことだ。

門外漢なので正確な文言でないことはご容赦頂きたいのだが、イエス・キリストは寝たきりの人を、その人自身の足で歩かせたというような文を目にしたことがある。

奇跡と言うんだろう。俗に言えば超能力とか言うんだろう。
凡愚としての私は、大いに違う精神ではあるが、もしかしたら同じ人間かもしれないイエス・キリストにそのことが出来て、自分に出来ないのが悔しかったのである。故にそれは隠していたのだった。
「傲慢だ」「大それた」「自意識過剰」と言いたければ言えばいい。何かの足しになるのならば。

病気がそもそもなかったら、私とは縁もゆかりもないその人であったかもしれない。
病が縁で出会った二人であったけれど、今紆余曲折ののちに、その方とは遠いところで私は日々を過ごしているけれど、今でも古い親戚のようにふとしたときに思い出している。

どうか、どうか、どこかの分野の何かの研究が進みに進んで、今病に疲れている人たちが、真の意味で癒されることを祈って、筆を置きたいと思う。

 

◆プロフィール
牧之瀬 雄亮(まきのせ ゆうすけ)
1981年、鹿児島生まれ

宇都宮大学八年満期中退 20+?歳まで生きた猫又と、風を呼ぶと言って不思議な声を上げていた祖母に薫陶を受け育つ 綺麗寂、幽玄、自然農、主客合一、活元という感覚に惹かれる。思考漫歩家 福祉は人間の本来的行為であり、「しない」ことは矛盾であると考えている。

 

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