【異端の福祉 書評】母になり / 今坂春菜(SDGs推進部)

母になり / 今坂春菜(SDGs推進部)

高浜代表、この度は出版おめでとうございます。地元滋賀で穏やかに「今がほんまに幸せ」と思えます。こんな幸せがあっていいのかと不思議にまたは不安に思えてくるほどです。それもこの数年、高浜さんの元で、仲間の支えがあって、頑張って来れた自分があるから。やっと自分を肯定できるようになりました。やっぱり根本からの気持ちの余裕がないと、自己肯定は難しいものだと再確認させられました。

私は高浜さんや皆様に、仕事を通じて沢山のチャンスを頂き様々な経験をしてきました。あの頃はとにかく自分の中の穴を埋めたくて。なぜか二十数年間ずっと恐怖と隣り合わせでした。

小学校1年生くらいの時でしょうか、ぐるぐると迷路みたいに抜け出せない森に入って(なぜか豚の上にまたがって豚に連れていってもらう)脱出できない夢を見ます。それも家族が皆妖怪につかまって、私だけひっそりと抜け出して、豚さんにお願いして深い深い森を抜け出そうとするのですが、どんどんと深みにはまってしまい・・・パッと目が覚めた頃は涙が乾いて目ヤニになって目が開けられない状態でした。その夢は7歳の私には衝撃的だったことでしょう。

それから、このような「逃げる」「抜け出せない」夢は内容を変えて、どんどん私の夢の中に登場していきます。特に何かから必死で「逃げる」夢は25歳くらいまで毎日のように続きました。それだけ、現実も何かから逃げていたのだと思います。逃げると同時に何かを掴みたくて掴みたくてしょうがなかった。

私の親は離婚しています。父親に似た私は、母親にうっとうしがられる事もありましたが、なんとか母に好かれたい、母に褒められたい、母を笑わせたいの一心で、何をするにも、母が喜んでくれる事をベースに生きてきました。

母は看護師で仕事をしながら育児、家事、すべてを担って育ててきてくれました。
当時は知りませんでしたが、私が中学生の反抗期のややこしい時に、母がALSの患者さんの担当をしていたことは、後になって知りました。

朝早くから娘たちのお弁当を作り、仕事では難病の方たちと接し、すぐ家に帰っては休む暇なく家事を全う。稼いだお金は塾代へと消え、手元にほぼ一銭も残らず、日々を繰り返す。そんな日常が「あたりまえ」じゃないと、母になってよくわかります。お母さんだから、親だから、って当たり前はないんです。大変だっただろうなぁ。

もの静かだけど強い芯のある母の日々の努力を、あの頃知っていたら、大嫌いな塾の勉強頑張っただろうなぁ・・・と、まぁ後悔はつきものです。でもそうやって思春期を経て、大きく成長していくんですよね。新米ママ、息子の思春期にびびりながらも楽しみであります。

話はそれましたが、ずっと何か大きな不安を抱えながら生きてきたように思えます。父に似たありのままの自分を受け入れられなかった。だから、何かを持って、何かに成って。そう思い、その何かを得るために転職活動を繰り返しました。これは違う、あれも違う、ちがうちがうチガウ、、、!

そんな事をずっと思っていた20代です。今、思うと自信がほしかった。安心したかった。愛されたかった。母が褒めてくれる時だけが、潜在的に愛されているように感じたのでしょう。母が喜んでくれるために、自分を大きく見せたり、偽った自分を見せたりもしました。そうして得られる快楽は中毒性があり、手段は問わず、そのためなら嘘をも付けてしまいました。

20代の頃結婚をしましたが、すぐに破綻しました。原因は共依存です。でもある意味、このころの経験が、固くこびりついた深い闇と向き合い、インナーチャイルドを克服できた事だと思います。当時の彼も同じくシングルマザーの母親で、母親からの愛情を感じてこなかった人です。

私は離婚後、すっと良い意味で何かの魂が抜けたように感じました。身体が軽くなったのです。その半年後、28歳くらいでしょうか、高浜さんと皆さんに出会い、重度訪問介護の道に入るのです。

介護は25歳から始めました。何ものかになろうとするのではなく、とにかく、何かを一生懸命やってみよう、と選んだのがお年寄りの介護でした。失敗しても必ず「人生経験」になると思ったからです。それだけ、自分ではなく人の事になるとどんな人でもリスペクト出来た。

人から批判されている人も何か背景があって、色んな事情がある。自分の正義があるならば相手にも相手の正義がある。だから、どんな人でも嫌いになれなかった。お年寄りの方々は自分の倍ほど生きておられる。その間色んな事があった事だろう。そこに在るだけで、尊敬の意が湧いてくるのです。高校生の時、尊敬する人は?と聞かれ「生きている人、生きていた人」と答えていました。

重度訪問介護との出会いは、まさしく「生きる」そして「活きる」事を身近に考えさせられるきっかけでした。
今は再婚し、息子が「生まれ」、育休を経て、バックオフィスで少しずつ働かせていただいています。

産休に入るまで、そして復帰してからも、私の体を気遣い、仕事を無理なく続けられる環境を整えてくれる上司には本当に感謝でいっぱいです。土屋は働く親たちを全力で応援してくださります。

「生かす」事に必死だった0歳児を経て、1歳になった息子を見ると、まだまだ小さいけど、随分大きくなりました。しっかり「活きて」ます。

皆お母さんから生まれてきてる。そう思うと、町で出会う見知らぬ人々をも愛おしく感じます。今まで出会った数々のクライアントのそれぞれの「生きざま」が私の活力にもなっている。人間って凄い。神秘的であり、力強い。だけど弱いんだ。人は支えあって生きてる。そんなシンプルだけど大切な事を介護を通じて実感できました。

重度訪問介護での数々の苦悩や喜びは胸に秘め(笑)、今私は、しあわせです。それもこれも高浜さんや皆さんと出会い様々な経験をさせて頂いたこと、クライアント・アテンダントとの濃密な日々に、沢山の気づきがありました。

気づき力は傷つき力で、傷つきながらも、いつの間にか逃げ出す事を忘れ、その傷を自ら修復する術を知り、そうやって同じ場所に居るように思えますが、螺旋階段を上るかのように少しずつ見える景色は変わってきたように思えます。
介護士という意味だけでなく、広い意味でのケア・ワーカーに少しは近づいたかな。

異端の福祉を読んで、高浜さんの優しさをまた感じる事が出来て素直に嬉しかったです。
高浜さんから「弱さの力」を教えて頂き、私も自身の内なるレジリエンスに気づけました。
それがとても私にとって大きな出来事でした。強さも大事、弱さも大事。だからこそ繋がり合う。土屋のシンボルマークのように。

高浜さんや皆さんに出会って、重度訪問介護に出会って、母になった私は、今日も今日とて、保育園に息子を預け、仕事をする。自分にとって“普通の日々”を送る。だが目の前の人に「ありがとうございます」と感謝の念を忘れず、伝え続ける。

愛が足りなかったのではない。
愛に気づけなかった。
大好きな地元、滋賀の湖畔の大地を踏みしめ、母なる琵琶湖を眺めながら、母の愛を感じて、息子の事を想う。

感謝を忘れず、身近な大切な人を大切にする。
これからは最愛の家族のパーソナル・アテンダントとなれるように。

完.

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