愛情の分割は可能か / 牧之瀬雄亮

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

訪問介護、訪問看護等をはじめとする病院や施設でない暮らしを応援する仕事につく方の中には、元々施設や病院での仕事をしていて、「一対一の支援がしたい」という動機で転職したという経緯をお持ちの方も多いのではないでしょうか。

私は現在知的障害のある方の入所施設に勤めています。職員と入所者の対比は一対一には程遠いものです。
重度訪問介護で味わっていた一対一の感覚が、懐かしく感じることもしばしばです。

「一対一の支援」、いいものです。

私が初めて福祉の仕事を始めた知的障害者通所施設は、(後で気付くことですが)かなり潤沢な人員配置がなされた施設でした。

しかしそれでも、3人の方に同時に話しかけられたり、Aさんがパニックになりそうな兆候を横目で気にしながらBさんの手を引いてトイレにいま連れて行かねばならないときに、両手を使ったジェスチャーで返事をしないとへそを曲げて家に帰ってしまう方に出会うと言ったようなことはままあります。

自分の性分として、
「自分自身が面白がりたい」
「屁理屈でも目の前の人を素敵だと言いたい」
とかそういう指向性があるのですが、前者については忙しく立て込むと私自身がすぐ余裕をなくすし、後者については当意即妙(すぐにパッと)できない場合が多いこともあり、

「もっと余裕を持って支援できたらな〜」

という気持ちは仕事を始めたかなり早い段階からありました。

紆余曲折あり、今私はまた一対一ではない支援の現場の中にいるわけですが、じゃあ「どうやって自分の中で折り合いをつけているのか」自分なりに分析してみます。

例えばドライブひとつとっても、私と3人4人、時には6人ということもあります。

車の中では全く当たり前のことですが、めいめいお好きなように私に話しかけてくれたり、お互いに話したり、どこそこに行きたいとおっしゃる方がおられるかと思いきや、別の方からは「何言ってんだ、黙ってろ。ダムに行く」「パン買わないのか」と意見が飛び出したり、また別の方は「トイレに行きたい」という仕草をなさっておられるということが同時に起こりますので、私一人で同時に皆さんが納得できるようにことを運ぶのはまず無理です。

ここで私がとる態度は、私がこの世で一番苦手な

「バランスを取る」

ということです。
しかし、バランスの取り方は、私とあと6人の方それぞれとの相談で決めます。

例えば、近くのコンビニに寄ることによってパン、トイレ、という希望が叶います。ここでは他のお客さんやお店に損害を与えるようなことは丁重に謹んでいただきますが、その他のことは好きにやって頂きます。コンビニにドライブの目的のピークを持っていける方は、ここで満喫していただきます。

「ダム!ダム〜!」という声も止みませんが、「買い物の後、ダムに行きます!約束します!」と、もう1000年前から決まっていて、一切揺らぐことはないといった調子でお伝えします。

それでとりあえず後はどうでもいいという気持ちの方にはダムへの道を楽しんでいただいて…なんてことをずっと繰り返していくのです。

「要望に応える順番が前後するのは申し訳ないけれど、必ずどこかで応えます」という態度を取り続ける

ということです。

一対一の支援でも、必ずご本人の意思が発生した瞬間と、それが私に伝わり私が理解してご本人と私で意思を具現化するまで、タイムラグと誤解を乗り越える必要があります。
これは必ずしも一対一の支援が、一対複数の支援より優れることを示さないということではないかと感じています。

複数の方と同時に接する状況に於いて、私は気持ちを誰か一人に向けられる時間が減ってしまうのではないかとずっと恐れていました。「一対複数」の支援では支援の質が必ず落ちてしまうのではないかと恐れていました。しかしこの私の恐れと勝手に私が感じていた申し訳なさこそが、より大きな支援への足かせになっていたことに気が付きました。

「場への関わり」とでも言うのでしょうか。

私はこれまでその場にいる6人に対し、一対一の関わりをそれぞれに持つことを強要していたのかも知れません。
6人には既に6人の中での過ごし方というものがあり、その場に関わる、関わらせてもらうという立ち位置を見過ごし、どこか自分が一対一で関わることに固執し、同時に過大評価していたように今では思えます。

自分の力を手放したとき、それに押さえつけられていた場の力が立ち上がるということです。
もしくは単に私が場の力を見ていなかった、見えていなかったということに過ぎないのかも知れません。

そもそも自分がそこで仕事を始める前から皆さんはそこにいるのですから、当たり前といえば当たり前ですが。

じゃあ何もしないのかというと、そういうことじゃないよね。ってことは、もう皆様お分かりだと思います。

朗らかに転換できるものは端からぜ〜んぶ自分も含めて朗らかにしていくというのは、ま、やるべきことですかね〜。

それではまた。

 

◆プロフィール
牧之瀬 雄亮(まきのせ ゆうすけ)
1981年、鹿児島生まれ

宇都宮大学八年満期中退 20+?歳まで生きた猫又と、風を呼ぶと言って不思議な声を上げていた祖母に薫陶を受け育つ 綺麗寂、幽玄、自然農、主客合一、活元という感覚に惹かれる。思考漫歩家 福祉は人間の本来的行為であり、「しない」ことは矛盾であると考えている。

 

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