脱施設化に向けて その1 / 安積遊歩

障害を持っている子供を育てていると、色んな会に関わりができる。特に戦後「親の会」は当事者組織以上に、活動が活発に発展した。特に肢体不自由児の「親の会」は、歴史も長いし、政治的な発言力も持ってきた。

つまり、当事者は子供であるから、親の方が子どものためにということで、子どもの幸せを考えてたくさんの施設を作ってきた。1960年代から70年代は彼らが考える子どもの幸せというものに、政治が高度経済成長を目指していたので、ドンピシャリとはまった。

つまり、大型施設が全国にどんどんできて子供は親から離されまくった。大型施設の中で行われていたのは、教育プラス障害の治療という名目で、文科省と厚労省が一緒になっての運営がなされた療育園が多かった。各県に一つか二つは必ずあったのではないだろうか。

私も福島県のそのような施設、療育園に2年半入所した。この経験はもっと幼い時の医療からの治療という名の虐待と並んで、私自身の随分なトラウマともなっている。この施設に入ろうと決断したのは私で、ただただ好奇心で行ってみた。私の親は「親の会」のメンバーにもなっていなかったので、この施設に何の義理もないから、施設が嫌だったら、すぐに家に戻ってくればいいと思っていたと思う。もちろん、子供だから「親の会」が私の親に会員ではなくても、見えない圧力をかけているとか、世間の常識で子供をいったん離したら、簡単に取り戻すことはできないのだという、そういう世界に生きているということは、全く知らなかった。

私の願いを次々に聞いてくれる親だった。入所のその日に廊下にベタ座リして、ヘルメットをかぶせられている男の子を見て、私は一瞬で「置いてかないで、お母ちゃんと一緒に帰る」と母親に小さい声で叫んだ。今思えば、その子は脳性麻痺で、頭のヘルメットは転んだ時の予防のために被っていたのだろうし、廊下に座り込んでいたのは何かリハビリをさせられていたのだろう。でも、彼の眼差しは私たちを羨ましそうに見ていたし、一人ぼっちで誰からも大事にされているようには見えなかった。だから、たちどころに私はここに置いていかれたら、大変なことになると思ったわけだ。ところが、母親は入所の理由を言ってきた。「すぐに手術をすれば、家に戻ってこれるし、迎えに来るからね」と涙目で言った。

元々母親は私が自分から離れたことを悲しく思っていたので、私がここに来るという決断をした時も、そんなに遠くに行かなくてもいいのにと少し泣きながら反対した。ただ私は、手術のために、病院に入院して、小学校の授業が遅れるのも嫌だった。ここにくれば、小学校5年生のままで、手術も受けられるというのも好奇心プラスの魅力に思えた。結局、その日は母親と一緒に帰ることは叶わず、母親がいなくなった瞬間から、私は毛布をかぶって泣いた。多分、夜遅くまで泣いて泣いて、周りの子供達に呆れられたと思う。翌朝、朝ご飯の時にはお腹が空いていたから、卵かけご飯をいっぱい食べた。しかしその卵には血がついていたから、私は母親にいつも血をとってと頼んでいたので、同じように看護助手の人に言ってみた。それが結構おおごとの話題になった。そこでは子供はよっぽどのことではないと、大人にものを頼んではいけないことのようだった。にもかかわらず私はその6人部屋の最年少の新入りであるのにその常識を破ったのだ。その日の夜には、生意気でわがままな子供が入園したという情報が大人にも子供にも共有されたらしい。私はそんなことには気づかず、1週間近く毎晩泣き続けた。入所した日は、多分春休みの終わりの頃で、すぐにベットサイドスクールも始まった。しかし、そんな授業は全くどうでもいいほどに寂しくて家に帰りたくて、そのことでいつも頭がいっぱいだった。1週間後くらいに非常に子供達に恐れられていた、主任看護婦にレントゲン室に呼ばれた。

その時にも、周りの子供たちのちょっと怯えた驚きの眼差しがどんな意味を持つのか全くわからず、もしかしたら、家に帰ってもいいよと言ってくれるかもとさえ思ってついていった。真っ暗なレントゲン室に薄暗い灯をつけて、まず彼女に言われたことは、「あなたは周りの子供たちがあなたの泣き声でどんなに嫌な思いをしているかわかっているの?家から離れて、寂しいのはわかるけど、1日2日くらいならまだしも昨日で1週間にもなるのよ。もういい加減に泣き止んで、周りの子供たちのことを考えてあげなさい。」というようなことを言われた。それに対して、私は「悲しいのは私であって、泣くのを止めることはできない。もし、帰っていいのなら、今すぐにでも帰りたいから、お母ちゃんに電話をしてほしい」と頼んだ。そして「私にとってここは地獄のようなところだ」と言ってしまった。彼女は私に説教をしてもいっさい、効き目がないと呆れて「お母ちゃんにこれから1ヶ月は絶対に面会に来ないようにと伝える」と立ち上がりながら言った。それは、私にまるで勝ち誇ったような感じだったから、私はさらに「お前は地獄の番人か」と言って、自分を窮地に追い込んだ。つまり、私はその後、薄暗い、あるいは電気も消されたかもしれないそのレントゲン室に数時間閉じ込められたのである。

支配者が被支配者をコントロールするときに、まず使う手は恐怖を与えることである。その時に私は、味方がいないこの施設でやっていくには、黙らなければならないということを一瞬にして学んだ。
母親が面会にきてくれたのは1ヶ月以上が経ってからだった。その間に、兄と従兄弟たちが母親の願いを受けてきてくれたが、私の大好きな母親を「1ヵ月は面会に来るな」と脅した彼女のその暴力性。その暴力が圧倒的な力だからここから出るためには、早く手術をしてもらう方が現実的なのだということを考え出した小さな私。初めて母親が面会にきてくれた時は、母親も多分、あの主任看護婦からめちゃくちゃ叱られていたのだろう。いつも小さい声がさらに小さくなって、「手術の日を聞いて帰るからね、手術をしたら、その後1週間は一緒にいれるからね。」と言ってくれた。母親と一緒に帰ることを諦めて、母親が持ってきてくれたチョコレートを隠れながら口に入れて、私はまた泣いた。

親たちは施設に子供を入れることをあの当時、どのように考えていたのだろう。障害を持つ子供の体は社会の迷惑だから、なるべく社会に迷惑をかけないようにひっそりと隔離しておくしかないと思っていたのだろうか。その中にも選別があって、社会に少しでも役に立つ人間になれそうだったら、教育や治療を施して、社会復帰を目指すべきという優生思想に満ち満ちた政策があり、私も彼女も翻弄された。

 

◆プロフィール
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ

骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。

著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。

2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。

 

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