私の家族② / 浅野史郎

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

父輝雄は、大正4年(1915年)11月7日寅之助—みさよの4男として宮城県登米郡北方村日向字杉林85番地で出生。兄妹で大学に行ったものがない中で、ただ一人東北大学医学部に進んだ。「百姓に学問はいらない」という浅野家の「家訓」に従わず、大学進学が許されたのは4男だし、学校の出来も良かったからだろう。

大学を卒業して、東北大学病院で勤務している時に結婚する。下宿先から勤務先の病院に通う途次にある田中書店・薬局の「看板娘」を見染めた。恋こがれた末に首尾よく結婚に至ったらしい。

大学を出てから、軍医として戦地に赴いた。当時の話は父からあまり聞いていないが、結構危ない目にも遭ったらしい。当時の母は、父の実家である北方村の浅野の家で父の帰還を待っていた。

戦地からなんとか帰還して、本業の医者として働くことになる。公立気仙病院の内科医長として岩手県大船渡市に赴いた。昭和23年(1948年)2月8日、私はそこで生まれた。

父の故郷、北方村は当時無医村。診療所はあったが、医者がいない。村長の熱心な依頼を受けて、父は北方村の診療所に行くことを決めた。一家5人で大船渡市から北方村へ移住。北方村で医者は父一人。相当忙しかったようだ。夜中でも歩いて往診する。私は父のことを「お父さん」ではなく「先生」と呼んでいた。

5年後、診療所勤務を辞めて、一家は仙台に引っ越す。母が、「こんな田舎では子どもたちの教育もできない」と孟母三遷の真似ごとを言い出したらしい。仙台では父の勤め口は限られている。宮城県教育委員会保健体育課に医系技官として職を得た。そしてそこに25年も勤めることになるのである。姉たちが、「お母さんのわがままで、お父さんが医者を辞めてしまった」と母を責めていたのを思い出す。

公務員は多忙ではない。父は家族思いであり、子煩悩でもあった。そのための時間がたっぷりあった。晩ごはんはいつも家族全員でいただく。父は晩ごはんの時間までには、仕事を終えて帰宅していた。ほぼ毎晩晩酌していた。お燗した日本酒、とっくり2本が定番だった。「もう1本」と母にねだることがあるが、母はいつも「だめです」と突き放す。その様子を見ている私は、「飲み過ぎはダメ、酔っぱらいは嫌い」と思っていた。「ちょっとかわいそうだったな」と今は思い直している。

父は容姿端麗ではない。むしろその逆である。幼い頃の私は、父の親戚の人たちに会うたびに「お父さんにそっくりだね」と言われるのがいやだった。言いながらにやっとしているので、「かわいそうにね」と思われていると感じたからである。それは私の考えすぎだと今ならわかるが、見た目が父に似ていることがいやだったことは確かである。

父は字がうまい。似るのだったら、そこのところであって欲しかった。父は、留学中の私にしょっちゅう手紙を書いてきた。字のうまい父の手紙なのに、字が下手というか乱れていることがあった。「酔っ払って手紙を書かないでください」と私は返信したが、父は腎臓機能低下、高血圧により体調を崩していた。乱筆はその症状によるものだった。
その後、体調がいい時は仕事もしていたが、入退院を繰り返し、最後は自宅で息を引き取った。65歳であった。

父は私のことを大事にしてくれた。私にも遠慮がちだったように思う。そのためか、私のほうでは、父を軽くみているところがあった。父から叱られたことは一度もない。

父はめったに私に意見することはなかったが、二つだけは今も覚えている。高校3年の頃、友人の加藤俊一君と受験をめぐってしょっちゅう言い合いをしているのを見ていたのだろう。「他人の意見にまどわされるな。史郎は自分の考えを曲げないでいきなさい」と言われた。もう一つは「酒は飲んでもいいが、タバコは絶対にダメだ」。タバコをやめられなかった父の遺言のようなものである。

◆プロフィール
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし

「明日の障害福祉のために」
大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。

2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」。

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